学部・大学院


こども保健学科 教員コラム

卒業式シーズンに思う

上寺 常和(教育哲学、教育学概論)


 3月は日本各地の学校で卒業式が実施される。

 そこには、数々の喜び、(別れの)悲しみなど感情が高揚する時期である。
私自身幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学、大学院と数々の卒業式経験を味わい、恩師との別れ、友人との別れ、後輩との別れ、時に家を出て両親・家族との別れなど惜別の感情は複雑でした。同時に、未来につながる未知への不安と期待が入りまじり落ち着かない、複雑な気分になった記憶がある、その一方で、それまでの抑圧(自・他律の規制から発するストレス)からの解放を感じたものである。

 未完成な身である私としては、現在でさえ卒業式の真の意味を論ずることはできない。卒業式は、英語ではグラジュエイションa graduation ceremonyが、アメリカでは a commencementが使われます。

特に後者の卒業式は、この式で終わりを意味するのではなく、これから始まることを意味する。
今後がより重要であることを意味する、そのほうが、よりベターと考えられる。今後の生き方が重要なのである。

 ところで、今年もすでにある看護専門学校の卒業式、特別支援学校の卒業式に参加させていただき、神聖な式の雰囲気を味わわせていただきました。看護学校の卒業式には何度かチャンスがあったにもかかわらず、自分の専門との違和感(教育学と医学との違い)がこれまであり、卒業式に出席してあげたいという気持ちはありながら、素直に出席することができなかった。

 専門にこだわる私自身の度量の狭さが出席に二の足を踏ませていた。
今年こそは出席したいと感じ思い切って参加させていただきました。教え子たちが、これから卒業後看護現場で十二分に力を発揮していただけることを期待しながら、彼らの巣立ちを頼もしく思えたものです。
もう一つの卒業式は、特別支援学校の卒業式です。
毎年のように出席させてもらっています。
私自身幼い時代からとても恥ずかしがりで、人前で呂律が回らまくなり、自分が何を言っているのかわからなくなる、要するに赤面症です。
これは幼少時から自分に対して嫌気がさしています。昨年の映画でイギリス王であった人物が言語障害があったにもかかわらず、努力して克服したものがあったが、吾輩はそこまでの努力家ではなく相変わらず克服できないままでいます。でも、なぜか出席してしまいます。
本当は、赤面症よりも障害を抱えている子どもたちに卒業後も自分たちの特徴(個性)を発揮して、力強くこれからも生きていただきたいという願いで出席させてもらっています。来賓の紹介で、紹介後紹介された人たちはほとんどが短く「おめでとう」という言葉を発するだけですが、なぜかすんなりと言えません。残念です。
それは兎も角として、卒業生に「卒業おめでとう」と声掛けしてあげることは正しいことでしょうが、特別支援学校・小学部の段階で卒業式までにいきることができない子どもがこの数年少なからずあります。
一生懸命生きてきた子どもたちが亡くなることは、悲しんでも、悲しんでも悲しみが尽きることがありません。
子どもたちは、多くのメッセイジを私たちに与えつづけてくれています、それを考えるだけでも涙が止まりません。
当然学校としては、式の初めに当たって、黙とうが実施されます。
これらの子どもたちが、幸せに楽しく毎日を生活し、一日でも長く生きて私たちにいろいろなメッセイージを伝えていってほしいといつも思っています。また、子どもたちの周辺で子どもたちの支援をしていただいている人たちには、頭が上がりません。
できるだけ障害のある子やその周辺で支援している人たち、ボランティアに参加しておられる方、行政的に支援している方に感謝しながら、自分自身がこのボランティアに参加することが常態化できれば・・・と考えるこの頃です。


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