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薬学部コラム

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第20回

次世代スパコン

生物物理化学研究室 吉井 範行 准教授


 昨年の流行語大賞に「事業仕分け」というものがありました。事業仕分けでは、国や自治体が進める事業の必要性や重要性、効率を、体育館のような場所を使って公衆の面前で議論され、個々の事業が「不要」、「民間に委託」などと次々に仕分されて行きました。そこでしばしば登場した言葉に「次世代スパコンプロジェクト」というものがありましたが、皆さんはこの言葉をどの程度ご存知でしょうか。
 「次世代スパコンプロジェクト」とは世界最速の汎用スーパーコンピュータを構築し、それを効率よく用いることによって、従来では実行不可能な科学技術計算を、世界に先駆けて行おうというプロジェクトです。現在神戸のポートアイランドに建設が進められ、来年度に運用を開始する予定です。
 まずスーパーコンピュータ(スパコン)とは何かということに触れておきましょう。ひとことで言うと、通常のパソコンより桁違いに高速な計算が可能なコンピュータのことです。次世代スパコンプロジェクトでは1秒間に1京回(1億の1億倍)の計算を行うスパコンの構築を目指しています。最新のパソコンでもせいぜい1秒間の計算回数は数百億回ですので、次世代スパコンはその数十万倍程度の性能があります。実際に次世代スパコンは64万個のコア(コア=コンピュータが数値処理する中心部)を用いて計算しているので、パソコン数十万台というイメージもあながち間違いではありません(注1)。筆者もこのプロジェクトに関わらせてもらっており、分子動力学計算という科学計算の次世代スパコン用ソフトウェア開発に協力するとともに、スパコンを利用させていただく予定となっております。
 ここで次世代スパコン云々に触れる前に、コンピュータの歴史を見てみたいと思います。コンピュータの開発は第二次世界大戦前後にまでさかのぼり、英国では、敵国ドイツの暗号通信の解読用としてColossusというコンピュータが1944年にすでに稼働していました。一方、米国では第二次世界大戦中から大砲の弾道計算用として開発がすすめられ、大戦終結までには間に合いませんでしたが1946年には完成し、ENIACと名づけられました。Colossusはその後国家機密として陽の目を浴びることなく、このことが英国製のコンピュータの発展に暗い影を落とします。一方、米国のコンピュータはその後ノイマン、エッカート、モークリーらの活躍により理論・技術面で大きく発展するとともに、フェルミやメトロポリスといった一流の科学者に利用され、原子分子の物理学、流体力学、量子化学等の様々な科学分野で、その有効性が広く知られるようになりました(注2)。
 一方、戦後、付加価値の高い工業製品の輸出による貿易立国を目指していた我が国は、それまで米国が独占していたコンピュータ分野に参入し大追撃を開始します。富士通が1954年にFACOM100を完成させたのを皮切りに、NEC、日立といった現在の我が国を代表するスパコン・ベンダーが次々と参入しました。

図1.モデル細胞膜であるリン脂質ベシクルの一部分に、抗がん剤5FUが結合した状態の分子動力学計算結果。脂質分子が中央に水色や青で示されている。5FUは膜の右側表面付近で結合している。図の左右の暗い部分が水の領域。原子数は2万個程度で、現在用いられているスパコンでも計算可能。(筆者らの計算結果)

図2.ベシクル全体の分子動力学計算結果。図は2分割した断面を示す。グレーの部分が脂質分子の疎水基、赤や黄は親水基を示す。黒の部分には水があるが描いていない。原子数は数百万個に及ぶ。現状のスパコンレベルでは、ベシクル全体の運動が見えるマイクロ秒程度の計算に数百年は必要となる。(名古屋大学工学部岡崎進教授、安藤嘉倫博士ご提供)

 1980年代には通産省のスパコンプロジェクトにより、半導体素子技術、並列処理システム開発が進められ、クレイ等の米国企業を脅かす存在にまでなりました。しかしこれが原因で貿易摩擦を生むこととなり、結局は1980年代半ば以降の米国の市場閉鎖戦術を招くに至りました。
 現在スーパーコンピュータの開発可能な国は、我が国と米国しかありません。世界中で実働の高速計算機の処理速度ランキングの上位500台を公表している“TOP500”で、1993年以降1位を獲得したシステムは、7つが米国製、5つが日本製で、これ以外の国のマシンは1位を獲得していません。ただし、最近10年ではNEC地球シミュレータが2004年から2年半ほど1位になりましたが、残りはすべて米国が占めています。さらに2009年11月現在でのTOP10中9つは米国製、残り一つは何と中国製となっています(注3)。我が国のスパコン産業は明らかに力を失いつつあり、次世代スパコンプロジェクトは、我が国のスパコン産業のハード・ソフトウェア開発の基礎体力をつける意味からも重要なものになっています。
 一方で、われわれサイエンスに関わる人間にとって最も重要なことは、次世代スパコンがサイエンスの立場から新しい発見を生み出す機会を与えてくれるということです。次世代スパコンの登場により、従来では全く不可能と思われていた様々な対象が計算可能となります。従来の分子のシミュレーションでは数万原子程度しか扱えなかったため、ベシクルの一部分(図1)、あるいはアミノ酸数十残基程度のタンパク質分子しかシミュレーションできなかったものが、たとえばウイルス全体(一千万原子程度)の全原子計算まで可能となります。またドラッグデリバリーシステムの薬物搬送媒体となるミセルやベシクル(図2)といったナノキャリア全体(数十から数百万原子)のシミュレーションも可能になるでしょう。これらは基礎科学分野に新しい知見を与えるのみならず、薬学をはじめとする医療分野に至るまで、大いに貢献してくれるものと期待されます。

事業仕分けでは様々な批判にあうとともに、計画変更を余儀なくされるなど紆余曲折のある次世代スパコンプロジェクトではありますが、完成すれば世界でも屈指のスパコンになることは間違いありません。きっと物理や化学のみならず、薬学をはじめとするバイオ、気象、地震、あるいは自動車産業等のエンジニアリングに至るまで、様々な分野で精力的に利用され、それぞれの分野の発展に大きく寄与するものと思います。これを使わない手はありません。願わくは筆者もほんの僅かでもよいので、物理化学の発展に貢献できればと願っております。


(注1)実際には、複数のコアを用いて計算を並列・高速化することは、そう簡単ではありません。通常プログラムは、まず1つのコアを用いて一つずつ計算を進めるように書きます。並列計算ではその計算を複数のコアに割り当てるようにプログラムを書きかえる面倒な作業が必要となります。さらに、それぞれのコアの計算負荷を同程度にしておかないと、速く計算が終わったコアが遅いものを待つことになります(これを“同期”という)。またコア間で計算に必要な情報のやり取りもしなくてはなりません(“通信”)。このような同期や通信のために、高々数十コアの並列計算でも効率はあっという理論性能の半分以下にまで下がってしまうのです。数十万コアでこれらの効率低下を避けるためには、プログラムを極限まで微調整する必要があるのです。

(注2)ENIAC以降、その重要性が認識されたコンピュータは、民間企業の開発対象となり、処理速度の高速化が進められました。インテルの創業者の一人、ゴードン・ムーアの名を冠したムーアの法則というのに、「コンピュータの処理速度は18カ月ごとに倍になる」というものがあります。ENIACの時代には1秒に数千回の足し算、数十回の掛け算しかできなかったものが指数関数的に増加し、現在では上記のように1京回の小数計算も可能となりつつあるのです。

(注3)2009年、中国がインテル社やAMD社製のプロセッサを用いてスーパーコンピュータを開発しています(TOP500のランキングは2009年11月時点で5位)。プロセッサはいずれも米国製であるので純国産スパコンと言えないですが、その事情は我が国も変わらないので、中国もスパコン業界に参入しつつあるとみなしてよいでしょう。

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