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播磨学II(第4回)「古代官道 山陽道と駅家」開講(報告)[教務課・地域連携課]

2014/11/11

後期開講の播磨学IIでは、オリエンテーション(第1回)、「映画でみる忠臣蔵」(第2・3回)に続き、10月24日(金)、兵庫県立考古博物館学芸員の篠宮正氏を講師にお迎えし、「古代官道 山陽道と駅家」というテーマでお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

今から約1,350年前、日本は中国の律令制度を参考に国家を整備し、大和国の都から地方へ向けて官道を整えた。そして、官道を往来する役人や外国使節に食料や水を支給し、馬の乗り継ぎや宿泊・迎賓のための施設として、瓦葺きで粉壁の立派な駅家を設置した。官道の幅は約6mから12m、折れ線グラフのように敷設された直線道路で、山陽道では原則として30里(16㎞)に1駅、馬20疋が常備された。都と大宰府を結ぶ山陽道は唯一の大路であり、古代官道の中で最も重視された。『延喜式』によれば、山城国の山崎駅から筑前国の久爾駅まで58駅が置かれたという。
たつの市にある小犬丸遺跡は、全国で初めて駅家であることが確定した遺跡であり、一辺約80mの築地塀で囲まれた駅館院には、7棟以上の瓦葺礎石建物が存在したことが判明している。墨書土器や木簡などの出土遺物から、布施駅家であることが裏付けられた。
古代官道は律令制の衰退にともなって、次第に利用頻度が少なくなっていった。その理由として、航路の方が効率的であったこと、道や駅家の維持管理が困難になっていったことなどが挙げられるが、貞観10年(868)に起こった播磨大地震も大きな要因であった。『日本三大実録』には、郡の官舎や寺院の堂塔がことごとく倒壊したと記されている。布施駅家では倒壊したと考えられる建物の瓦がそのままの状態で出土し、遺棄された状況がうかがえる。

(文責:講義担当責任者 大塚健洋)

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