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播磨学Ⅱ(第12回)「河合隼之助道臣(寸翁)の生涯」開講(報告)[教務課・地域連携課]

2015/01/11

12月19日(金)、播磨学研究所研究員で姫路市立好古学園大学講師の藤原龍雄氏をお迎えし、「姫路藩家老・河合寸翁の人と業績」というテーマでお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

河合寸翁(1767~1841)は、酒井忠以・忠道・忠実・忠学と4代の藩主に家老として仕え、姫路藩の73万両もの債務を返済、財政再建を成功に導いた人物である。市内には、寸翁神社と像(写真:大塚撮影)、隼之助屋敷跡、白浜の固寧倉、姫路藩切手会所跡、仁寿山梅岡墓地、仁寿山校跡などの史跡がある。

彼の生涯は4つの時期に区分される。第1期(1767~1808)は、出生から21歳で家老席に列し、42歳で財政改革の全権を委ねられるまでの雌伏期。

第2期(1808~1817)は、改革着手から初期の成果を上げた格闘期。固寧倉の設置、生業資金の貸与、木綿の江戸直売、「在町仰渡されの覚」、御国用積銀制度などによって、質素倹約・綱紀粛正・人心掌握に努め、民生の安定を図った。

第3期(1818~1832)は、改革の本番である。切手会所を設けて藩札を発行。藩主忠学と11代将軍家斉の娘・喜代姫との婚姻を実現し、酒井家の家格の向上を図るとともに、それをてこに、江戸における姫路木綿の専売権の確保に成功した。上質の姫路木綿は「姫玉」とよばれて好評を博し、莫大な利益を獲得して負債を完済した。

第4期(1835~1841)は、改革晩成期。隠居し私塾の仁寿山校を開学、人材育成を図った。国政への布石も打ち、忠学と側室の志津磨との間に生まれたいつ姫を、九条幸軽に嫁がせた。将軍家や九条家との関係から、幕末における姫路藩の立場は、土佐藩や福井藩と同じく公武合体派に属すると思われる。

(文責:講義担当責任者 大塚健洋)

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