2008年8月8日、北京オリンピックが開催されたのはまだ記憶に新しいですね。
プロデュースをスピルバーグ監督に断られ過剰な演出もありましたが、
自国監督によって企画された開会式は文明発祥の地にふさわしく文化の香り高いものでした。
かつて、日本が東京オリンピックを契機に先進国への仲間入りを果たしように、中国のこれからの発展を予感させます。
と同時に、五輪で放たれた光が強ければ強い程、その陰で生じた闇もまた深みを増しています。
オリンピックはその理念から「平和の祭典」と呼ばれていますが、時の国際情勢に強く影響を受け、
チベット問題等を抱えた中国はテロを警戒せざるを得ませんでした。
そして、中国ばかりでなく世界の至るところで紛争があり、日本もその例外ではありません。
隣国である韓国とはサッカーワールドカップを共催した間柄ですが、日本海にある一つの島を巡って争いが絶えません。
竹島は韓国では独島と呼ばれ、日韓双方が領有権を主張しており、外交問題の火種となっております。
国交に溝が生じた場合の処方箋に定型は無く、お互い相手を批判することは珍しくありません。
でも、それだけで問題は解決するのでしょうか。そのような時に、一筋の光を与えてくれた出会いが思い出されます。
今から8年ほど前、私は大阪のとある製薬会社に勤めておりました。
そこに研修のため韓国の製薬会社から派遣された社員の方を少しだけお世話したことがあります。
韓国は先の大戦前は日本の植民地だったかも知れませんが、
歴史的には中国の先進文化を日本に伝える架け橋となってくれた大切な国です。
日本は中国大陸と朝鮮半島から文化的影響を受けており、例えば、茶道では楽茶碗などの和物ばかりでなく、
唐物(中国)の天目茶碗、高麗物(朝鮮)の井戸茶碗も重宝されています。
ご存知の方もおられるかも知れませんが、大阪中之島に世界屈指の東洋陶磁を収蔵・展示している美術館があります。

大阪市立東洋陶磁美術館
その東洋陶磁美術館には、中国・韓国・日本陶磁と李秉昌コレクション(韓国陶磁)の常設展示室が設けられています。
李博士は1949年外交官として来日、経済学で博士号を取得、以来日本に住まれていました。
博士は母国の文化に誇りを持たれ、その半生をかけて301点の韓国陶磁器を収集されたのですが、
その優品を惜しげもなく東洋陶磁美術館に寄贈されたのです、ある特別な願いを込めて。
私は、韓国からの友人をその美術館に誘いました。彼の母国の文化遺産である韓国陶磁の優品を鑑賞して貰い、
その素晴らしさを堪能され日本での良き思い出になれば、と思ったのです。
その期待通り、彼はとても驚いておりました。
「韓国でもこれほどの規模の展覧会は見たことがありません」

青磁陽刻 牡丹唐草文 共蓋鉢
高麗時代・12世紀前半
質・量ともに彼の予想を超えていたようです。
が、なぜ母国でよりも異国での展覧会のほうが優っているのか不思議でなりませんでした。
その理由を尋ねてみると、しばらくの沈黙の後に、
「日本の支配下にあった数十年の間に、
我々にとって重要な文化財である多くの優品があなたの国へ運ばれていったのです」
韓国陶磁の美しさの陰には、深い悲しみが隠されていたのです。
第一次世界大戦前、日本はアジアの盟主を目指し、韓国・北朝鮮を併合し、
多くの人々が朝鮮半島から日本へと強制連行されました。
日本による統治は第二次世界大戦後に終結したものの、アメリカとロシアの冷戦によって朝鮮戦争が勃発し、
半島は北と南に分断されました。祖国に戻れなくなった在日の方々は、もはや日本で生きていくしか無かったのです。
しかしながら、第二の故郷は必ずしも暖かいものではありませんでした。
日本人なら当然保障されている権利も与えられず、不当な差別や貧困に耐えなければならない、
そのような在日の方々の置かれた立場を李博士は憂慮されていたのです。
博士は、自身の収集した韓国陶磁を日本の美術館に寄贈することにより、同胞に勇気と矜持を与え、
祖国に誇りを持つことを願っていたのです。敢えて日本を批判されなかった博士の遺志は、
日本人に内省を促し、そして深い感銘を与えています。
将来、博士のコレクションは在日の方々に対する偏見を取り除き、
両国の間に横たわる不幸な溝を埋めてくれるものと信じて止みません。
李博士の偉業は、歴史的な経緯があって対立している場合でも、
相手の非を責めるのではなくむしろ敬意を払うことによってお互いに高い次元に立ち共に生きていける可能性を示しています。
韓国陶磁、その美しさにこめられた気高き精神、それが一筋の光なのです。
*掲載されている写真は全て、
大阪市立東洋陶磁美術館
の許可を得て転載しております。
タイトルをクリックすると美術館HPに掲載されている説明文を閲覧することができます。
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