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2013年09月10日

播磨学Ⅰ(第8回) 「名画の見方(酒井抱一)」を開催しました。[教務課・地域連携課]

6月7日(金)、姫路市立美術館学芸課の平瀬礼太 学芸員を講師にお迎えし、「名画の見方(酒井抱一)」について、お話しいただきました。

酒井抱一(1761~1828)は、姫路藩15万石の有力大名家に生まれた。本名は忠因(ただなお)。兄の忠以(ただざね)は16代当主で、宗雅と号す。酒井家は文芸を重んじ、特に絵画には造詣が深かった。青年期、吉原を拠点に江戸の市井文化になじんだ抱一は、「松風村雨図」などの肉筆浮世絵を描き、「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の狂号で洒落本に狂歌を発表した。

37歳で出家する前後から、尾形光琳に深く傾倒し、やがて江戸琳派とよばれる独自の画風を確立した。代表作の「夏秋草図屏風」は、11代将軍徳川家斉の実父、一橋治済の依頼で、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれたものである。光琳と違って、抱一の作風は繊細、優美で、草花、雨風、昆虫などが生き生きと季節感を伝えている。

抱一はまた、工芸意匠も手掛け、調度、装身具、盃、小道具など、蒔絵師の原羊遊斎と組んで江戸琳派デザインのブランド化も進めた。私生活では気ままに生き、48歳の時には吉原の花魁を身請けして内妻とした。小鸞女史と名乗った彼女との合作も残されている。酒井抱一は、1828年、下根岸大塚村の雨華庵にて68歳で没した。彼の系譜を受け継ぐ画家としては、鈴木其一、池田孤邨らがいる。

(文責:大塚健洋)