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2013年10月16日

「播磨学II」(第3回)開催(報告) [教務課・地域連携課]

10月11日(金)、「播磨学II」(第3回)が開催され、姫路市埋蔵文化財センター館長の秋枝芳氏に「播磨の古墳と播磨国分寺について」というテーマでお話しいただきました。講義概要は以下の通りです。


埋蔵文化財とは、古墳や集落跡など埋蔵された文化財のことをいい、全国に約290,000、兵庫県に約32,000、姫路に約1,200存在する。埋蔵文化財を通じて、私たちは新たな歴史を発見することができるが、一旦発掘すると元に戻らないので、後世に伝えていくことが大切である。1,000の5という言葉があるが、1,000回掘って995件は破壊し、わずか5件だけが保存対象となるというものである。保存するために、播磨国分寺跡のように、史蹟として整備し公園にして活用することが求められる。

古墳時代は4つの時代に区分される。前期(3世紀後半~4世紀後半)、中期(4世紀後半~5世紀後半)、後期(5世紀末~6世紀末)、終末期(7世紀)である。姫路市の代表的な古墳としては、御国野町にある兵庫県下第3位の規模の前方後円墳、壇場山古墳があげられる。これは5世紀前半に姫路平野に君臨した大王の墓と考えられている。また、壇場山古墳の北方100mには、県下最大規模の方墳、山之越古墳がある。2つの古墳の形の違いから、権力の継承について、政治的変動があったのではないかとか、山之越古墳は家来の墓ではないのかなど、様々な疑問が出されている。

鎮護国家の思想から、全国に国分寺・国分尼寺がつくられたが、播磨国には、市川東岸に東西・南北それぞれ2町の規模で、播磨国分寺がつくられた。しかし、行政・司法組織としての播磨国府は、そこから西へ8キロ離れた姫路市本町に置かれた。古くから姫路は播磨の中心であった。

(文責:大塚健洋)