5月23日(金)、姫路市埋蔵文化財センターの黒田祐介氏を講師にお迎えし、「考古学から見た姫路の歴史」というテーマで、映像を用いてお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。
浜田耕作によれば、「考古学は過去人類の物質遺物(に拠り人類の過去)を研究するの学」である。その対象は、人類出現から現在まで、世界全域に及び、埋蔵文化財も含まれる。考古学がなぜ必要かというと、文献の不備、文献に現れない事柄の存在、著者による脚色や改ざんといった文献史学の限界があるからである。
考古学の調査には、実際に歩いて遺物を探す分布調査と、発掘調査がある。発掘調査はほとんど、やむなく工事で破壊される遺跡を発掘し、埋蔵文化財を記録する記録保存目的で行われている。
考古学から姫路の歴史をみると、旧石器時代の資料は、わずかに石器が出土しているだけで、遺構は見つかっていない。縄文時代(13,000年前~)のものとして、辻井出土の縄文人骨が有名である。弥生時代(紀元前9世紀~)の資料としては、名古山遺跡から石製銅鐸鋳型が日本で初めて出土した。
3世紀から古墳時代が始まるが、古墳には巨大な前方後円墳から土坑墓にいたるまで階層性がみられ、身分制度ができたことがうかがえる。代表的な古墳としては、箸墓古墳と相似形の丁瓢塚古墳、市域最大の壇場山古墳、渡来系遺物が副葬された宮山古墳、市域最大級の横穴式石室をもつ御輿塚古墳などがある。
古代(6世紀~)になると、古墳に替わる権威の象徴として、溝口廃寺などの古代寺院が作られるようになった。壇場山古墳の近くに播磨国分寺や国分尼寺が創建され、現在の総社あたりには播磨国府があったと推定されている。また、古代山陽道も整備され、佐突(北宿)、草上(今宿丁田)、大市(太市中)などに駅家が置かれた。
(文責:播磨学担当者 大塚健洋)