学部・大学院

薬学部コラム

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第38回

教わるよりも勝ること

生理学研究室 矢上 達郎 教授


 薬学教育にはコアカリキュラムが定められており、学外での病院・薬局実習は必修である。私は薬剤師ではなく実務の経験は無いが、昨年、初めて実務実習指導の役割を担わせてもらった。指導していいのか、指導できるのか、迷いながらの一年であった。実習先に迷惑をかけないようにする余り、ミスの多い学生にプレッシャーをかけてしまったこともあった。「萎縮させすぎではないのか、失敗したとしても受け止めるだけの余裕はある」と、逆に指導薬剤師の先生からたしなめられたこともあった。今では指導しているという感覚はあまりなく、生徒を通して私自身も学び、ミスからどのように立ち直れば良いのかを一緒に悩み、学生の成長を一緒に喜んでいるというのが実情である。大学では教わっていないことも実習先では課題として出されることもあり、日誌のやり取りを通して担当学生の奮闘ぶりが伝わってくる。私は理学部卒なので学外実習はなかったが、不安と緊張を抱いて社会に出、自立しようと四苦八苦していた20代の頃が思い出される。

修士1年、博士課程への進学を内心希望していたが、それを所属研究室の教授に伝える前に、逆に製薬会社への就職を打診された。今から思えば恩師の親心だが、暗に研究者としては無理だと言われたようで挫折感を覚えた。その当時の私は指導教官の指示したことはするが、自分からアイデアを出すことは一度もなかった。なぜなら、研究の世界は科学論文(主に英語)を中心に展開されるにも拘わらず、英語を書くことはおろか、まともに読めず、自分の考えを持てなかったから。入力する情報が無ければ、当然、出力されるアイデアも無く、研究者としては致命的欠陥と言わざるを得ない。自分に自信を持てず研究室の落ちこぼれのような私を、よく塩野義製薬は引き受けてくれたと思う。そればかりか、博士号を取得する機会までも与えてくれた。研究所の基本方針は創薬だが、若手には研究者としての成長の機会も与える方針も併用してくれていた。ただ、入社後バブルがはじけ、グループの離合集散が激しくなり、移籍先での歓迎会がそのままグループ解散会となったこともあった。先の読みがたい時期にもかかわらず、課題の継続を認めてくれたのには、感謝するばかりである。しかしながら、博士号のための課題は最初の上司が与えてくれたものなので、別の上司に指導を求めるのは難しい状況であった。修士の時に受けた挫折を再び味わいたくない、その一心で常に鞄の中に論文を2,3報入れ、通勤電車の中でひたすら読み続けた。結果、入社4年後には辞書なしで速読できるようになり、6年後には論文を独力で通すことができるようになった。がむしゃらに実験し、人の3倍は失敗したと思う。着想を得たアイデアを周りの人に話すと、次第にサポートしてくれる人が現れてきた。サポーターのほとんどは別グループであり、私の研究に協力する義務はなく、協力したからといって会社から評価されるわけでもない。にも拘わらず、アフター5や休日に協力してくれた(図)。振り返ってみると、研究者としての教育の最後の仕上げとして、会社は敢えて教えず育てず、自立を促すために見守り続けてくれていたのではないかと思われる。

研究以外にも薬学部には実学が用意されており、薬局・病院での実務実習を通して薬剤師として自立することを目指してゆく。研究と同様に、講義で教わっていなくとも、自身で調べ時には患者さんとの対応を通して様々な課題の解決能力を獲得してゆく。座学だけでは決して得ることの出来ない自信に満ちた学生が実務実習から戻ってくるにつけ、「教わらないことが教わることに勝る」としみじみ思う。この4月から新5年生が実習に出向く。不安と緊張の彼らが、自信にあふれた顔になって戻ってくるのを今年も楽しみにしたい。


(図)

(A)は、神経細胞の電子顕微鏡像である。Dr.高須(CMの高須クリニックとは無関係)に指導して頂いた。お手本を見せてもらっている間にDataが揃ってしまったので、そのまま論文を投稿した。結果、10年近くたった今でも頻繁に引用される程、評価の高い論文となった。高須博士は同期であるが、ライバルというより師匠である。

(B) は、長崎氏に市販の[3H]PGD2から各種代謝物を合成して頂いた。今でも市販されていない貴重な放射性標識化合物であり、この化合物を用いた結合実験により私の研究のオリジナリティーは確立された。長崎氏は、休日に私の自由課題に付き合ってくださった恩人である。

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