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薬学部コラム

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第16回

正しい判断とは

生物分析化学研究室 黒田 義弘 教授


 人は産声を上げて生まれて以来、親任せの幼少期を除いて、生きていくためには常にありとあらゆる種類の“判断”が求められる。この“判断”に関して、私は常々“正しい”判断をするための普遍的な法則は無いものかと考えてきた。すなわち、これからの人生に大きく関わるような内容であればあるほど、後々後悔しないような正しい判断をする必要があるからである。
 今から10年くらい前のことであるが、京都新聞のコラム欄で「二河白道(にがびゃくどう)の比喩」と題して書かれたコラムを読んだことがある。残念ながら著者のお名前は忘れてしまったが、そこに書かれた話の内容に私は非常に興味がもたれ、10年経過した今日でも私の脳裏に鮮明に残っている。そのあらましをご紹介したい。

 二河白道の比喩とは中国浄土教教義の大成者といわれる善導(613-81)が著した“観経疏(かんぎょうしょ)”に記される比喩譚である。ひとりの旅人が西に向かって遠い道程を行こうとしたところ、目の前に忽然と二つの河が現れた。右手、即ち北側に水の河、左手、即ち南側に火の河である。これらの川幅は百歩程度に過ぎないが、南北には果てしなく延びており、また底なしであった。水の河と火の河の境目には幅4~5寸(12~15cm)の白い道が通っているが、荒れ狂った水の波と火の炎が白い道を絶え間なく覆っており、到底、無事に渡れそうな道ではなかった。この白い道を前にして旅人が途方にくれて佇んでいると、河岸の左右および後方から群賊・悪獣が現れ旅人を襲ってきた。するとこの時、後方(此岸(しがん))から「汝、心をきめて白い道を尋ね行け」と勧める声が聞こえ、また前方(彼岸(ひがん))からは、「汝、直ちに来たれ、われよく汝を護ろう」との声が聞こえた。旅人はこれらの声に後押しされ、意を決して白い道を渡り始めたところ、「戻れ、その道は危険だ、われわれは悪心をもって言っているのではない、悪いことは言わない、引き返せ」との群賊・悪獣のさけび声が聞こえた。しかし、旅人は煩悩を斥け、自らの強い信念を貫き、白い道を渡り無事に西岸へ辿り着くことができた。

 この比喩において、東岸(此岸)は娑婆世界(現世)、西岸(彼岸)は極楽浄土、水の河は愛着や欲望、火の河は怒りと憎しみの心、群賊・悪獣は人の迷いから沸き起こる悪い考え、白い道は極楽往生を願う清浄な心を意味する。また東岸からの声は釈迦如来の声、西岸からの声は阿弥陀如来の声である。
 私の記憶では、京都新聞のコラムの著者は白い道に加えて、青い道を設定し、群賊・悪獣は旅人に対して、白い道は危険だから、青い道を行くように強く勧めるとの筋書きであった。すなわち人が自らの判断と信念によって著しい困難と危険を伴う火の河、水の河を横切るために正しい道(白い道)を渡ろうとする時、いかに多くの群賊・悪獣が執拗に旅人の足を引っ張り、正しくない道(青い道)を渡らせようとするか、いかに正しい道を選ぶことが困難であるかを教えている比喩として書かれていた。この「二河白道の比喩」を少し遠目にみると、“正しい判断”をするということは、自らの迷いから沸き起こる悪い考えを斥け、自分にとって“苦”が伴う(より負荷がかかる)選択肢を選ぶことであるように思える。これと類似の思想として、聖書にも、「狭き門より、入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていくものは多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出すものは少ない(新約聖書マタイによる福音書第7章第13節)」とあり、仏教、キリスト教を問わず同じ思想のようである。また、この比喩譚における群賊・悪獣は己の内から沸き起こる悪い考えであるが、京都新聞のコラムの著者は群賊・悪獣を例えば政治家に見立てて、国民に青い道を渡ることを余儀なくさせるために甘い囁きをする者として書かれていた。この比喩譚では、旅人は釈迦如来の声、阿弥陀如来の声に押されて正しい道(白い道)を進むことができた。すなわち他力本願である。しかし、自分自身で判断しなければならない(すなわち、自力本願)修行の足りない私自身を振り返ってみると、私は殆どの場合青い道を選んで来たように思う。なぜなら、“苦”が待ち受けていると予想される選択肢を私は本能的に選ばないからである。
 このコラムを読んで下さった皆さんは如何でしょうか?

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