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薬学部コラム

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第36回

阪神・淡路大震災から17年

健康管理学研究室  炬口 真理子 講師


阪神淡路大震災写真1

 昨年3月11日、東日本大震災が起こりました。私が生きている間に阪神・淡路大震災以上の災害が再び日本を襲うとは思ってもいませんでした。しかし、起こったのです。
 1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分52秒、私は神戸市東灘区のマンションで目を覚ましました。揺れが納まるのをただ、頭を抱えて待っているだけでした。棚という棚はすべて倒れ、物は落ちました。幸いにも私の上には何も落ちてきませんでした。何が起こったのか?しばらくするとサイレンの音が鳴り響き、外を見ると、遠くの方で炎が燃えさかっていました。「すごい地震が起きたんだ!・・・・」
 周囲と何の連絡も取れぬまま一日が過ぎました。職場の同僚がやってきて「病院が大変だ、すぐに行きましょう。」と。着の身着のまま同僚の車に乗り、六甲経由で約4時間かけて神戸大学病院にたどり着きました。検査部の中は、機器は傾き、試薬は床に流れ落ち、ガラスは割れ、とても緊急搬送されてきた人々の検査ができる状態ではありませんでした。何とか水が不要なドライケミストリーの機器を動かすことができ、この機器一つで2週間対応したのでした。

阪神淡路大震災写真2

 私を含め5人が約2週間病院に泊まり込み検査にあたりました。 大阪、明石以西の職員は交通機関が復旧していないため来ることができず、長田区、兵庫区、灘区の人々は安否すらわかりませんでした。病院ということで、電気はいち早く復旧し、水も最優先に給水車で運ばれてきました(しかし、トイレをバケツの水で流したのはこれが初めてでした)。弁当、パン、飲物のような物資は山のように運ばれて余るほどでした。病院のロビーには数十人の被災した人々が寝泊まりしていました。私たちは食物をロビーにる人々に配りました。皆とても喜んでいたのが印象的でした。と同時に、私たちだけこのような物資に溢れていていいのかと悩みました。
 震災から2週間が過ぎ、大阪からは船、神戸以西からは車または電車とバスを乗り継いで徐々に職員が集まり始めました。私は東灘区の家から約1時間かけて自転車で通うことになりました。至る所に亀裂が入り、盛り上がったり凹んだりしている道路を行くのはそれはもう大変でした。家に帰ってからも水ラインが復旧していなかったので給水車から水をもらい、お風呂は近くの小学校の仮設風呂(シャワー)に行きました。小学校にはまだたくさんの方々が避難されていました。命と家が残っている自分は何て幸せなんだろう。
 神戸の復興の早さには目を見張るものがあります。震災前、ここには何があったのだろう、と思い出せないほどです。東北の被害は広域に渡っているため復興は神戸のようには進まないと思います。ヒトの命は戻ってくることはありません。しかしモノは必ず以前よりよくなって戻ってきます。
 毎年1月17日が近づくと、テレビ、新聞、雑誌はこぞって阪神・淡路大震災をとりあげ、当時を回想します。私はこれまで一切そういうものに目を向けたことはありませんでした。しかし今年始めてテレビを観て、新聞記事を読みました。17年経ったからではなく東日本大震災があったからなのでしょう。

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