学部・大学院

薬学部コラム

<<< コラム一覧     << BACK     NEXT >>  
第60回

銀の馬車道起点、生野銀山を訪ねて

衛生・微生物学研究室 川井眞好 准教授

 平成28年から8月11日が「山の日」として国民の祝日となることが報道されました。このような中、姫路に来てから訪れてみたいと思っていた「銀の馬車道の起点」である生野銀山を訪れました。  生野銀山の発見は大同2年(807年)と伝えられていますが、本格的な開坑は室町年間で、世界遺産に登録されている石見銀山よりもやや時代は下ります。以後、昭和48年(1973年)まで操業は続きました。明治維新のころには、生野銀山は国営化され、外国人技術者であるフランスの鉱山師が招かれ、最新設備を導入した近代化が図られました。この際、流通の中心となったのが「銀の馬車道」です。


図1 鍰(からみ)の利用

「銀の馬車道(生野鉱山寮馬車道)」は生野銀山と姫路港の間、約49kmを結ぶ馬車専用道路として明治9年に完成しました。 生野銀山の採掘・製錬に必要な機械などの物資、また、産出された銀の運搬ルートとして、大きな役割を果たしました。 すなわち、“日本で最初の高速産業道路”です。 現在、その役割はJR播但線に変わり、馬車道もほとんど残っていませんが、発展してきた沿線には、豊かな自然の中に様々な見どころがあります。 生野銀山は銀の馬車道と合わせて平成19年に経済産業省によって近代化産業遺産群「生野鉱山」 に認定されました。

 さて、夏の暑い日、姫路から播但線に1時間ゆられ、生野の町を訪ねました。播磨と但馬を結ぶ播但線は、寺前を過ぎるととたんに山深くなり、但馬国に入って最初の駅が生野になります。生野の町は太平洋斜面(市川流域)と日本海斜面(円山川流域)の分水嶺に位置しており、生野駅と鉱山町、製錬施設や鉱山施設のほとんどは市川に沿って並んでいます。駅を含む地区は口銀谷(くちがなや)と呼ばれ、旧役場を中心に狭いながらも細長い格子状の町割りがなされ、分水嶺らしく石州瓦と淡路瓦を織り交ぜた家並みが続きます。さらに特徴的なのは、鉱石から金属を製錬する際に副生する鍰(からみ)、いわゆる製錬時の余りものを利用した煉瓦が挙げられます(図1)。これは、民家や社寺の塀や土台、庭の敷石など、町の至るところに利用されています。今で言うリサイクルです。


図2 トロッコ道

 町並みを見ながら歩き、生野書院を訪問しました。材木商の邸宅を改修した家屋で、生野の町に縁のある書画や資料が展示されています。そこから少し北へ歩けば明治19年築の一区公民館(旧生野警察署)、山沿いには寺町が続きます。市川沿いへ歩をすすめれば、旧吉川家住宅(生野まちづくり工房井筒屋)と旧浅田邸。どちらも鉱山町の繁栄を伝える建築物で、 現在は朝来市が管理しています。旧浅田邸は江戸末期、生野代官所の役人を出始めに、維新以後には播但鉄道の敷設発起人や、町長(戸長)、兵庫県議会議員、衆議院議員をつとめた浅田貞次郎の子孫の邸宅です。市川を隔てた山腹にある姫宮神社からは、浅田貞治郎の銅像がいまも街を睥睨しています。また、市川沿いには、大正9年に鉱石輸送のために設けられた軌道跡がトロッコ道として復元されていました(図2)。


図3 生野銀山坑道口

 江戸時代、幕府領(いわゆる天領)だった生野 鉱山は、明治政府による官営時期を経て、明治29年には民間(三菱合資会社)に払い下げられています。口銀谷の東の外れには、官営時代に整備され、のちに三菱の社宅 として使われた一群の木造平屋住宅が「旧生野鉱山職員宿舎(甲社宅)」として修復再生され、平成22年から公開されています。社宅の1つ(甲7号)は、ここで生まれ育ち、後に昭和を代表する俳優として黒澤映画のほとんどに出演した志村喬(1905-1982)の記念館となっています。甲社宅から奥銀谷まで5分ほど神姫バスにゆられ、今は史跡として観光坑道が残る生野銀山へ向かいました。延長1000mの観光坑道(図3)は大きく分けて、江戸期までの手掘り採掘 によるエリアと、採掘機械を用いた近代化以後のゾーンからなり、一回りするのに1時間近くかかりました。坑内の気温は年間を通じて13℃、この種の施設にしてはめずらしく、段差もなく平坦で、子供連れやペット連れで涼みにくるのにもってこいの場所です。夏の暑さを忘れさせてくれると同時に自然の大きさを感じさせてくれます。ここでは、鉱山技術の展示だけではなく、日本酒やワインの貯蔵・熟成にも活用されていることには驚かされました。坑道を出たあとは、谷間に残された露天掘跡と粘土断層を散策しました。

 銀山を出発し、帰りは夕暮れの市川沿いを口銀谷までぶらぶら歩きました。 途中には、現在もスズの電解製錬をおこなっている三菱マテリアルの生野事業所があります。ここには生野鉱山の本部の古い建物も残されています。年1回一般公開されていますので、時期をあわせて再訪してもよいかもしれません。今回は日帰りでしたが、日本の近代化を支えた生野の町を満喫し、力強さと新 しい技術を取り込む柔軟さを感じた1日でした。心残りは、鉱山社宅のホームメードの懐かしい味と言われている“ご当地グルメのハヤシライス”を食べられなかったことでしょうか‥‥。

ページの先頭へ