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山本 隆弘
山本 隆弘
山本 隆弘

05

Interview

姫路獨協大学女子バレーボール部コーチ兼スカウティング

山本 隆弘

目標をクリアするのが

楽しくてしかたなかった

05

Interview

姫路獨協大学女子バレーボール部コーチ兼スカウティング

山本 隆弘

目標をクリアするのが

楽しくてしかたなかった

プロフィール

1978年7月、鳥取市生まれ。元全日本バレーボール選手。鳥取県立鳥取商業高等学校、日本体育大学体育学部体育学科卒業。プロ時代はVプレミアリーグのパナソニックパンサーズに所属。身長201cm、体重90kg、靴サイズ32.0cm、ジャンプしての最高到達点は355cmに達していた。「世界が認めたニッポンの大砲」とのキャッチコピーでも知られ、日本代表でもエースとして活躍。2008年には北京五輪にも出場した。

バレーボールを始めたのはいつ頃ですか。

世間のプロフィールでは、中学生から始めたことになっているんですが、入学後2年間は、バレーボールをやっていたとは言えないですね(苦笑)。
小学4年生までは野球をやっていたんです。ピッチャーだったんですが、コントロールに難ありということで早々にやめて、サッカー部に入りました。でも、中学のサッカー部には部員が200人ぐらいいて、体験入部で、ボールを一度も蹴らせてもらえなかったので、これもあきらめました。当時うちの中学は、部活動をしなければならないという校則があったので、仕方なく陸上部に入りました。

なかなかバレーボール部にたどり着きませんね(笑)。

陸上部ではハードルの選手だったのですが、練習すればするほど嫌になって「どうやったら退部できるか」をずっと考えていました。思いついたのが、「ケガをしてやめる」こと。練習中にわざと膝をハードルにぶつけたら、血は出るし、痛いし、痺れるし、「大ケガだ」と喜び勇んで病院に行ったら「ただの打撲」と言われてしまって(苦笑)。計画はうまくいかなかったのですが、結局2年生に上がる前に退部しました。
スポーツ系は断念して、茶道部を考えていたんですが、男子バレーボール部のクラスメイトから「入部してくれ」と懇願されたんです。部員が彼1人しかいない状態で、「2人いれば廃部にならない。名前だけ貸して」と言われて、正座より楽だなと思ってOKしました。

山本隆弘さんインタビュー画像1

そこからバレーボールにのめり込んでいったのでしょうか。

2年生の2学期ぐらいまでは何にもしていないですね。部員が2人ですし、顧問の先生も熱心ではありませんでした。ただ、秋頃になって、どちらともなく「練習してみる?」と言い出して、ボールを一つ持って体育館に行ったんです。体育館は、半分を男女のバスケットボール部が、もう半分を女子バレーボール部が使っていました。つまり、僕らの練習スペースはなかった。場所を貸してくれとは言いだせなかったので、何を思ったか、僕らは体育館のステージに上がったんです。でも、練習方法がわからないので、壇上でフリーズしてしまいました。気づけば、皆の目が僕らに注がれている。それはそうですよね。一段高い所で男子2人がボールを持ったまま固まっているんですから(笑)。でも、その日から週2回、女子の真似をしてアンダーパスやオーバーパスを練習するようになったんです。すると、生徒の間で「楽な部活」と有名になって、入部が相次いだ。最終的に7人になり、新人戦に出場することになりました。

新人戦の結果はどうだったのでしょうか。

2試合で1点も取れずに敗退です。でも、試合は楽しかった。惨敗後、僕らの心境に変化が生まれました。まず男子バレーボール部の目標を決めました。それは「女子バレーボール部と試合をして勝つ」というもの。とはいえ、僕らの練習場所はいまだに体育館のステージ。そこで、近くの小学校でママさんバレーボール部に教えてもらうなどして、力をつけていきました。そして3年生のある日女子バレーボール部に挑みました。結果は、勝利。嬉しかった。その後の市大会でも3位になったのですが、それよりも女子バレーボール部に勝てたことのほうが嬉しかったですね。「目標を立て、努力すれば達成できる」と感じるのと同時に、「バレーボールを続けていきたい」と思えた瞬間でした。自分たちで目標を立て、練習内容を考え実践して、達成まで漕ぎつけた。この楽しさが僕をバレーボールに熱中させたんです。

山本隆弘さんインタビュー画像2

高校、大学はバレーボールの名門校に進学されましたね。

高校生活は充実していましたね。バレーボールの技術が向上していくのを肌で感じました。中学3年間で34cm身長が伸びたのもあって、高校では1年生からレギュラーになりました。インターハイは3年連続で国体にも出場、U-18日本代表選手にも選ばれた。高校3年生の頃には、「オリンピックに出場する」という夢を抱いていました。
大学は東海大学からも誘っていただいていましたし、近畿大学も進学候補になっていましたが、高校の監督は自身の母校でもある「日本体育大学に行け」と。監督は僕にとって絶対的な存在だったのですが、日本体育大学の上下関係の厳しさが引っかかっていたんです。結局は「大学までは俺の言うことを聞いてくれ」という監督の熱意に負けて、日本体育大学に進学しました。
ただ、想像以上に厳しい状況が待っていました。先輩からの理不尽な要求も少なくなくて、悶々とした日々を送っていた2年生のある時、どうしても我慢ができない事件があって、監督に「辞めます」と伝えて鳥取に帰ったんです。バレーボール部はもちろん、大学も辞める覚悟でした。

鳥取に戻られてどのように過ごしていらっしゃったのですか。

まず、高校時代の監督に報告と相談に行きました。バレーボールは続けたかったので、社会人チームに入る道はないかと探ってもらったのですが、どのチームからも「大学は卒業してくれないと困る」と言われて、入団は叶いませんでした。バレーボールを半ばあきらめて、トラック運転手の職に就きました。鳥取と京都を往復する毎日を過ごしていたのですが、半年たったあるとき、京都へ向かう道中、ふと10年後の自分を想像したんです。するとトラック運転手として大成している姿が浮かんでこなかった。片やバレーボールをしている将来を思い描いてみると、社会人で活躍して、日本代表に選ばれている自分がイメージできたんです。何より「やっぱりオリンピックに出たい」と思ったんですね。人生は一度きり、正直な気持ちに嘘をついていては、後悔すると思って大学への復帰を決めました。

山本隆弘さんインタビュー画像3

復帰は簡単ではなかったと思うのですが。

大学の監督は復帰を見越して休学扱いにしてくれていたんです。大学側には、高校の監督が復帰の要望を伝えてくれました。高校の監督は「俺はいつでもお前のそばにいる。何も考えずに頑張ってこい」と、送り出してくれました。
大学に戻ったものの、厳しい上下関係はそのまま。出戻りの僕へのあたりは厳しく、練習もさせてもらえず、上級生はもちろん、同級生からも声をかけられることはありませんでした。雑用ばかりの日々でしたが、それでも全体練習が終わった後には、一人でトレーニングを続けていました。辛かったですが「人生でこれ以上悪い状況はない。あとは上向くだけだから、できることをやろう」と、開き直っていましたね。さすがにある日、見かねた同級生が練習に付き合ってくれて、徐々にチームの一員として復帰を果たしました。

大学4年生のときには、キャプテンにもなっていますね。

就任するにあたって、チームには条件を出させてもらいました。「不要な上下関係は廃止する」です。「下級生が委縮するような言動や習慣はすべてなくそう」と訴えると、皆同意してくれました。大学時代の戦績は決して満足のいくものではなかったですが、このチーム改革が今なお日本体育大学に根付いている現状を考えると、充足感がありますね。誰かが変えないとダメだった状況を、僕が先頭になって変えられた。僕の大きな財産です。

山本隆弘さんインタビュー画像4

大学卒業後はパナソニックパンサーズに入団し、日本初のプロ選手になりました。

大学の監督は他に行かせたいチームがあったのですが、僕はパナソニックー択でした。決め手は高校の監督の一声。「山本の意思を尊重してやってほしい」と言ってくれて、希望のチームに行くことができました。
プロになるのは、僕の強い要望でした。アマチュアである社会人選手は、午前中は会社で仕事をして、午後から練習をする。十分なトレーニングができないし、体をケアする時間もない。そこで僕は会社に話をして、プロとして契約してもらったんです。理由はオリンピックに出たいから。社会人選手ならケガをしても会社の保障がありますが、プロにはない。そこまで退路を断って甘えをなくし、自分を追い込まなければ、オリンピックにはたどり着けないと考えたんです。ただ、保険制度の整備など、しなければならないことが多々あったので、そこは言い出した以上頑張って取り組みましたね。オリンピックに出たいという夢が、頑張れば手に届くという目標に変わって現実味を帯びてきているのに、あきらめるわけにはいかないという心境でした。

2008年にはエースとして、念願だったオリンピックにも出場されました。

嬉しかったですね。ただ、日本代表として一番印象に残っているのは、2002年の世界選手権です。僕は左足のすねを疲労骨折していたのですが、第3戦の相手ブルガリアは、オリンピック予選で当たる可能性があったので、どうしても対峙しておきたかった。痛み止めを打って出場しました。第3セット終了時点で1対2とリードを許す展開、僕は先輩セッターに「トスを全部僕に上げてください。僕が一人でアタックします」と耳打ちしました。すると先輩はすべて僕にトスをくれて、最終的には日本の逆転勝利で終わりました。僕の言葉は、チーム戦術には反していた。けれど、チームメイトがインタビューで「今日のゲームで山本は真のエースになった」と、僕の行動を認めてくれたんです。チームスポーツにおける自己主張の大切さを学びました。

2023年11月には、姫路獨協大学の女子バレーボール部コーチに就任されました。

松本慶太監督と僕は高校時代のコーチと選手という間柄。なおかつ姫路獨協大学の女子バレーボール部のメンバーには、僕が引退後に開催している小学生のバレーボール大会を手伝ってもらっていたのもあり、恩返しのつもりで引き受けしました。
指導方針は「抑え込まない」。ミスをしても頭ごなしに注意せずに、むしろ、チャレンジしてのミスなら、僕は拍手を送ります。いい加減な気持ちでプレーしてミスをすれば雷を落とします。ケガにもつながるし、チームに悪影響が出ますからね。チームは風船と同じで、膨らませる=作り上げるのはすごく大変なんですが、割る=壊すのは簡単。アメとムチを使い分けながら、指導しています(笑)。

山本隆弘さんインタビュー画像5

高校、大学、そして社会人でも山本さんは常にパイオニアになってきたのですね。

いつも目標があったから、チャレンジできたんだと思います。今の子どもたちにも、夢をもって、夢を目標に変換してほしい。目標は短期、中期、長期と区切って一つずつ丁寧にチャレンジしてクリアしていく。目標を達成するって楽しいですよ。日々成長する自分を実感できます。
僕の座右の銘は「志あるところに道ありき」。秘めた思いをもち続けて努力すれば、必ず夢にたどり着きます。

山本さんの今の夢、目標はなんですか。

目標は、姫路獨協大学女子バレーボール部を4部リーグから1部に引き上げることです。でも、昇格するだけでは意味がない。バレーボールもできる、授業の単位もしっかり取れる、就職先も見つかる、そんな部員を育てるのが夢です。
皆には後悔して欲しくないんですよ。スカウトも兼ねているので高校生とも話をするのですが、「自分の実力では大学でバレーボールをするのは難しいのではないか」という声をよく聞きます。そんなの、やってみないとわからないですよ。バレーボールが好きで、少しでも続けたい気持ちがあるのなら、チャレンジすべきですし、もしバレーボールをあきらめざるをえない状況になっても、大学なら他にやりたいことがきっと見つかります。自分の気持ちに素直になっていい。若い人たちに伝えたい思いですね。

山本隆弘さんインタビュー画像6

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