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山口 千尋
山口 千尋
山口 千尋

03

Interview

女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」
ジェフユナイテッド市原・千葉レディース

山口 千尋さん

自分の選んだ道を正解に

できるのは、自分だけ

03

Interview

女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」
ジェフユナイテッド市原・千葉レディース

山口 千尋さん

自分の選んだ道を正解に

できるのは、自分だけ

プロフィール

1996年生まれ、長崎県出身。中高一貫の神村学園(鹿児島)女子サッカー部では、全国大会で活躍。姫路獨協大学在籍時にユニバーシアード日本代表に選出された。2019年、医療保健学部こども保健学科卒。同年、なでしこリーグ2部「愛媛FC」に入団し、チームを優勝に導き新人賞に輝く。WEリーグ発足に伴い、21年に創設されたサンフレッチェ広島レジーナヘ完全移籍。プロ契約選手となる。23-24シーズンから現チーム。スピードを生かしたドリブルなどが武器で、主にサイドハーフとして活躍を続けている。料理が好き。チームメートに振る舞うこともあり、エビチリとロールキャベツが得意。

どんな幼少期を過ごされましたか。

長崎県出身ですが、父が海上自衛官だったので転勤で引っ越しが多かったですね。広島に千葉、宮城、沖縄にも行きました。小さいころから、外で遊ぶのが好きな子どもで、野球やドッジボールを男子に混じってやっていました。当時から、足は速かったですよ。いろいろなことに挑戦させてくれる両親だったので、水泳、ピアノ、習字など習い事は多かったです。でも、これだ、という熱中できるものに出会えていなくて。転機になったのが、サッカーでした。

2歳上のお兄さんの影響で始めたそうですね。

宮城県にいた小学3年生の後半くらいに始めました。父は仕事が忙しく、母も兄のサッカーチームのお手伝いで家を空けることがありました。弟は4歳下でまだ小さかったので、母が一緒に連れて行く。そうすると、1人でお留守番することになるのですが、それが嫌だったんです。なので、私もついて行くようになりました。そうしたら、監督さんから「サッカー、やってみないか?」と誘われたんです。当時、ほかに女子はいなくて、正直な話、最初は楽しくなかったです。でも、そのチームは「楽しむこと」にフォーカスした練習をするのが特徴で、ゲーム感覚でやっていくうちに楽しくなっていきました。同時に、うまくいかず「悔しい」とも思うようになって。私、負けず嫌いだったみたいで(笑)、のめり込んでいきました。
小学5年生の時に、父の転勤で鹿児島に引っ越しました。弟も小学1年生になっていたので、一緒のチームで練習するようになりました。いつごろから言い始めたかは忘れてしまったのですが、「将来は一緒にプロサッカー選手になろう」と誓い合っていました。当時は女子にプロリーグがまだなかったのですが、そういうことも分からずに話していましたね。今、私はWEリーグでプロ契約をしてもらい、弟(山口卓己選手)も鹿児島ユナイテッドFC (24年からJ2)に入団できて、約束をかなえることができました。本当にうれしいですし、お互いにもっと頑張っていきたいと思っています。

小学校卒業後、中高一貫で強豪の神村学園(鹿児島)に入学されますね。

小学6年生の時に地域のサッカー女子を集めた即席チームで、女子だけのサッカー大会に出場しました。その大会で主将を務めて、優秀選手にも選ばれたんです。自信がついて「強いチームでやりたい」という思いが募る中で、母から「神村学園っていう強い学校があるよ」と教えてもらいました。寮に入ることになるのですが、今思うと、あまり深く考えずに進学してしまったと思います。
というのも、最初はホームシックで家に帰りたくて仕方がなかったんですよ。洗濯機の使い方とか、寮生活は分からないことだらけ。6年間で大学進学を目指す「文理コース」に進んでいたので、勉強も大変。サッカーでも、「こんなにうまい人がいるのか」って、驚きの連続でした。上級生はもちろんですが、同級生には、後に日本代表になる上野真実選手(サンフレッチェ広島レジーナ)がいて、レベルの差を感じました。

そんな厳しい状況でも頑張れたのはどうしてですか。

父から手紙をもらっていたんです。「帰りたくなったら、いつでも帰っておいで」って。そんなこと言われたら、逆に帰れないじゃないですか(笑)。高校の先輩たちにいろいろ教えてもらえたことも大きかったです。「ああなりたい」という存在のプレーを間近で見ることができて、刺激を受けました。だから、中高一貫の神村学園に進んで良かったと思います。中学2年生から試合に出るようになって、高校3年生までレギュラーでした。
でも、満足感は全くなかったです。中学2年生の時に全日本女子ユースサッカー選手権大会でベスト4入りして、高校1年生では全日本高等学校女子サッカー選手権大会で準優勝。でも、自分たちの代では、九州大会で負けたり、全国大会も1回戦止まりだったりして、結果を残せなかった。選手層は厚くて、監督にも「全国で優勝できる」と言われていた世代だったのに。それが悔しくて、練習は誰よりもしましたね。ナイター設備があったのですが、毎日、寮の夜の点呼(門限)ギリギリまでやっていました。

山口千尋さんインタビュー画像1

高校卒業後、姫路獨協大学に進む決断をした経緯を教えてください。

サッカーを続ける前提で、大学進学と実業団入りという選択肢がありました。ただ、当時は自信をなくしていた時期でした。自分たちの代で結果を残せていませんでしたし、今のままじゃ実業団では通用しないんじゃないか、と思っていて。サッカーだけを続けて、ケガなどでダメになったときにどうなるんだろう、ということも考えました。
実は、小学生のころは養護教諭に憧れていた時期もあったんです。外で遊ぶことが多くて、ちょっとしたけがをした際に保健室の先生にすごくお世話になって。だから、そういった資格も取れるこども保健学科がある姫路獨協大学を進学先に選びました。女子サッカ一部は関西の強豪でしたが、チャレンジというよりも比較的堅実な道を選んだ形ですね。その結果、父とは大げんかをしてしまいました。

けんかというのは、何があったのでしょうか?

父は実業団か、関東の強豪大学に行くべきだ、と言っていたんですよ。つまり、サッカーに集中すべきだ、と。安定よりも挑戦を取れ、という意味ですから世の中の親御さんと逆かもしれない(笑)。今になって振り返れば、私の夢を後押ししてくれていたんだって分かりますけれど、当時はそんな風には思えなくて。でも、サッカー選手になることを諦めたわけではなかったので、そういう目的地がハッキリしていたからこそ、いろいろと学びながら資格も取れる姫路獨協大学に進学して良かったな、と思っています。
結果的に大学で活躍したことで注目してもらい、ユニバーシアード日本代表にも選ばれました。人生は選択の連続です。正解か間違いかを判断するのは難しい。でも、選んだのであれば、後悔のないように一日一日を精いっぱいやる。自分次第で、未来を正解に変えていくことができると思います。

こども保健学科で学んだことで、今に生きていることはありますか。

ユニバーシアードの合宿と学外での実習が被り養護教諭の資格を取ることはできなかったのですが、大学の方々にはサッカーとの両立のために本当にいろいろと助けていただいて、幼稚園教諭一種免許などの資格は取得することができました。プロになってからサッカー教室で子どもに指導することがあるのですが、やる気が出るような言葉のかけ方や安全への配慮などは大学での学びが役だっていますね。

4年間を過ごした姫路の印象はいかがですか。

本当に住みやすい街ですよね。都会過ぎず、田舎過ぎず。大学生からすると、ベストな環境なんじゃないかなって。学生時代は、鹿児島県出身の店長がやっている居酒屋「岩黒」(姫路市)でアルバイトをしていたのですが、今でも家族ぐるみでサッカーの応援をしてくれていて、ありがたく思っています。遠征で近くまで行くと、寄らせてもらって私の大好きな「鶏刺し」を食べさせてもらっています。私自身、いろいろなご縁を大切にするというのがモットーなので、姫路には、これからも足を運びたいですね。

山口千尋さんインタビュー画像2

大学卒業後、2019年になでしこリーグ2部の「愛媛FC」に入団されます。1年目からレギュラーを獲得。優勝に貢献し、12得点で新人賞にも輝きました。

中高で一緒だった上野選手もいるなど縁を感じて入団を決めましたが、あそこまで順調にいくとは思っていませんでした。当時は、朝から夕方までフルで仕事をし、夜に練習という環境です。太陽光パネル関係の会社で事務をしていたのですが、サッカーよりもそちらのほうが大変。サッカー無しで社会人になっていたら、くじけていたかもしれません。もう、サッカーが息抜きの感覚でした(笑)。
2020年に1部に昇格して戦う中でも「通用する」という実感を持てました。その年頭に立てた目標の一つが「なでしこチャレンジ」のキャンプに選ばれることだったのですが、年末にかなえることもできて、順風満帆な時期でした。

「なでしこチャレンジ」のキャンプは、日本代表候補を発掘するための合宿で、厳しい競争があったと思います。

個々の主張が本当に強くて、自分が「1部でも通用する」と思えていたのは、周囲のサポートがあってのものだったんだと痛感しました。個としてもっと成長しなくてはいけないという思いを強くした経験でしたね。それもあって、21年から始まる「WEリーグ」のため創設されたサンフレッチェ広島レジーナに移籍することを決めました。プロ選手を目指していましたし、愛媛FCの皆さんにも「お前は声が掛かったらWEリーグに行け」と背中を押してもらっていたんです。

プロになったことで、意識はどう変化しましたか。

「サッカーでお金をもらっている」ということに重みを感じるようになりました。1年目はスタメンよりもサブ(控え)での途中出場が多く、試合のリズムがつかめず、活躍できませんでした。2年目になると、試合に出場すらできなくなり「働いていないのに、お金をもらっていいのか」とスゴく落ち込むようになって。チームにはプロ契約ではない選手もいて、その選手のほうが試合に出ていると「(契約を)代わったほうがいいんじゃないか」なんて、本当に消極的な考え方になってしまっていました。
引退について真剣に考えたほどです。もう、アマチュア(なでしこリーグ) に戻ってサッカーを続けようとほとんど決意していたころ、同じWEリーグのジェフユナイテッド市原・千葉からオファーをもらいました。最初は驚き、戸惑いました。「試合に出ていないのに、なんで?」って。移籍しても同じことになるんじゃないか、と不安もありました。

そんなどん底の精神状態の中で、もう一度やってみようと思った理由はなんでしたか。

やっばり、負けず嫌いなので「見返したい」という気持ちが、原動力になったのだと思います。あとは、これまで熱い応援をしてくれたファン・サポーターの方々の顔が浮かびました。試合に出られない時でも優しい声を掛けてくれた方々に、ユニホームが代わったとしても、もう一度プレーを見せたい、恩返しがしたい、そんな気持ちになりました。

山口千尋さんインタビュー画像3

移籍後の23-24シーズンは、サイドハーフとしてスタメンを勝ち取り、第2節ではヘディングシュートでプロ初得点も挙げました。まさに「見返して」います。

ジェフというチームが本当に自分に合っていて、自信もちょっと回復しました(笑)。試合に出られていなくても、ほかのチームならばフィットするということがあるんだということを実感しています。
この経験で、大学時代のことを思い返しました。私はレギュラーでしたが、試合に出られない同級生をいつも励ましていたんです。良かれと思ってやっていたことでしたが、あるとき「千尋には、私たちの気持ちは絶対に分からない」と言われました。当時はショックでしたが、今だからこそ、何でそう言われたのか、分かる気がします。
今でも彼女の気持ちが理解できたとは言えないのでしょうが、試合に出られないツラさは本人にしか分からない部分があると、身をもって知りました。だからこそ、頑張っているけれど結果が出ないという若い子たちには寄り添って力になりたいと思っています。

今後の目標を教えてください。

選手として結果を残すことはもちろんなのですが、お客さんや子どもたちがワクワクするプレーを見せることが一番です。「娘が最近、千尋さんのプレーを見てサッカーを始めました」なんて言われると、やりがいを感じます。できる限り現役を続けたいなと思っていて、将来の夢は結婚して子どもを産んで、その子と一緒に試合前の選手入場(エスコートキッズ)をすることなんですよ。実際に、そういう選手もいるんです。世の中的には、今も出産や育児で仕事を辞める女性は多いのかなと思うのですが、私は諦めて欲しくない、と思っていて。そういう思いを、自分の姿で示すことができればと願っています。
ただ、ずっとサッカーだけをしようというわけでもないんです。だから、2024年の目標の一つは「サッカーを辞めた後のことも視野を広げて考える」です。サッカーは大好きですが、それ以外に自分は何ができるのだろう、と考えることも楽しみですね。

それでは最後に「オトナ1年生」に言葉を掛けるとしたら、何でしょうか。まずは、当時の自分にメッセージをお願いします。

18歳で選んだ道は間違っていないから、そのまま突き進んでください。あと、勉強は計画的に。ファミレスで、一夜漬けとかしちゃだめだぞ(笑)。

それを踏まえて、今の「オトナ1年生」にもアドバイスをお願いします。

きっと大人1年目は、環境が大きく変わって苦しいことのほうが多いと思います。けれど、自分の選んだ道を正解に出来るのは、自分だけ。一日、一日、背伸びせず、自分が出来ることを100%で頑張ってください。

山口千尋さんインタビュー画像4

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