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清元 秀泰
清元 秀泰
清元 秀泰

12

Interview

姫路市長

清元 秀泰さん

姫路の医療体制向上に向け

姫路獨協大学のノウハウに期待

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Interview

姫路市長

清元 秀泰さん

姫路の医療体制向上に向け

姫路獨協大学のノウハウに期待

プロフィール

1964年姫路市生まれ。1988年香川医科大学(現・香川大学)卒業。1992年同大学大学院修了。1992年米国テキサス大学ヘルスサイエンスセンターサンアントニオ校学術研究員。1995年香川大学医学部附属病院に勤務。2010年東北大学医学部医学系研究科に異動。2018年まで同大学教授。同年5月から東北大学客員教授。2019年4月姫路市長就任。循環器病や腎臓病などを専門とする内科医。博士(医学)。

市長は長く医師として活躍してこられましたが、医師になろうと医学部を目指した経緯を教えてください。

実は姫路西高校在学中は医師ではなく文系進学を考えていました。高校3年生の受験の半年くらい前になって急に「医者になろう」と思い立ったのです。ただそれまでも「人の役に立つ人生を」という考えや医師への敬意は持っていました。祖父からはつねづね「人が生まれてきた意味を考えろ」と言われ、「戦争と平和」についていろいろと教えられ広島平和記念資料館にも連れて行ってもらいました。一番強く言われたのが「人の役に立つことが充実した人生だ」という教えでした。
私が高校生の頃の姫路市には暴力団問題があり、社会正義が危うくなっていました。それを見て私は弁護士になることを夢見ていました。それが変わったのは、17歳のころにたまたま読んだバイク雑誌によってでした。キューバ革命の英雄チェ・ゲバラのことが紹介されていて、その生き方に感銘を受けたのです。ブエノスアイレスの医科大学時代にバイクで南北アメリカ中を旅し、抑圧されている人々を救済することに命を懸ける生き方に共感しました。人の役に立とうという思いが純粋なゲバラの影響で「医者になっても面白いな」と考えるようになったのです。
医学部は難関でしたが、私でも入れる医学部を探すと新設されてまだ3年目の香川医科大学なら文系でも受験できたのです。入学すると先輩が200人ほどの小さな大学でした。同期の半分弱は文系出身生で、学生運動の闘士や島の駐在所の警察官だった人など変わり種も多かったですね。
*チェ・ゲバラ(1928~67年):アルゼンチンの革命家。中流家庭に生まれ、医科大学卒業後、1955年メキシコで亡命中のフィデル・カストロに出会う。1956年カストロらとキューバに上陸しゲリラ戦を開始。1959年キューバ革命の成功後はキューバの市民権を与えられ、国立銀行総裁や工業大臣などとして新しいキューバの建設に貢献。1965年ボリビアへ潜入し、山岳地帯でゲリラ活動を指揮。1967年ボリビア政府軍に捕えられ銃殺された。

清元秀泰さんインタビュー画像1

大人(20歳)になったころの心境やエピソードを教えてください。また、これまで壁にぶつかったことはありますか。

大学2年の19歳の時に、県会議員だった父が選挙で落選し、無収入になったうえに、数億円の借金を抱えたことで仕送りが途絶えました。私は働く必要があり、大学を中退することも考えました。中退届を出しに行くと庶務課の課長など事務職員の人たちが慰留してくれて、授業料全額免除の申請書を用意していただき、そのための追試験もしてくれたのです。おかげで父の収入が戻るまで授業料は全額免除になりました。育英会の奨学金もお借りし、さまざまなアルバイトもしました。パチンコ店のホールのボーイ、夜の水道工事、予備校の試験監督、皿洗い、家庭教師などです。大学5年の時に父は県会議員に復帰でき、家計の状況も回復しましたが、それまでは成績が悪いと授業料全額免除にはならないので苦手な数学や物理も含めて必死に勉強もしました。食費が1日100円しか使えない時もあり、学生食堂の定食代350円も出せないので、午後1時半からの授業を抜け出して食堂に行き、定食のサンプルを頼んで分けてもらったりしました。20歳前後の私は結構苦労し壁だらけでしたが、周囲の優しさに支えられて壁を乗り越えていった時代でもありました。
その後、大学院に行きながら地方や瀬戸内海の島の診療所に勤務しました。県内の主な病院は県外の伝統ある大きな大学の医学部系列になっており、新設で弱小の香川医科大学出身者が入り込む余地がない時代でした。そんな中、大学病院の循環器内科の研修医時代に、大学病院の臨床治験でコンプライアンス違反があり、直言居士の私は担当教授に不正ではないかとアピールしましたが、逆に「和を乱すので医局を辞めてくれ」と言われたのです。非常にショックでした。医局から外された私は他県の病院勤務をしながら、別の研究室にお世話になってなんとか博士号を取ることができました。しかし、このまま日本にいてもまともな就職先が見つけられなかったので、米国の病院に「雇ってくれ」と何十通も手紙を書きました。結局、28歳の私を拾ってくれたのがメキシコ国境のテキサス大学とVA Hospital(退役軍人病院)でした。そこで3年ほど勤務したころ、アメリカにいる私に「医局に戻って医局長として医局改革をしてほしい」と教授から長い謝罪の手紙が届きました。「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」。帰国してまず行った改革は、先の不正に関与した医師の行為を黙認していた上級医の退局でした。大騒ぎになりました。それから約10年、私は人材育成や研究指導など死に物狂いで改革に取り組みました。香川では多くの若手医師の育成、特に個々に応じたキャリア形成に力を入れました。その後、2010年、東北大学から「若手の臨床指導をして欲しい」と声がかかり、東北大学の教員として赴任しました。東日本大震災の半年前でした。

清元秀泰さんインタビュー画像2

東日本大震災が医学の世界から政治の世界に入るきっかけになったとお聞きしています。

若い頃の香川医科大学救命救急センターや離島での診療経験が大震災では、役に立ちました。震災後3カ月間、石巻市や気仙沼市、南三陸町などの現場に張り付いて現場の医療復興の統括をしていました。当時の内閣官房から「現場の状況を聞かせてほしい」と招請されたこともあって、政府の被災地復興計画の地域医療支援部門の部門長に指名され、東北大学医学部の人材育成や先端研究の一翼も担うことになったのです。その後、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)に出向し、プログラムオフィサーとして全国の大学に研究費などを配る側の役人も2年間していました。内閣官房の仕事をしている頃(2017年頃)、前市長から「次の姫路市長選に出てみないか」と声をかけられたのです。

18歳の頃は現在の自分(市長職)の姿を想像されていましたか?

想像していません。医学部にいたので開業医をするか、教職者として大学に残り後進を指導したいな、などと考えていました。市長をやることなど想像できなかったです。ノーベル賞を取れるような才能があれば研究でノーベル賞を目指したかったです。ノーベル賞を取った山中伸弥さんとは大学院時代に肩を並べて実験したこともありますが、自分の世界を突き進む孤高のランナーである彼とは違って、私は大学で後進を育てることに向いていたようです。

清元秀泰さんインタビュー画像4

医療系大学の誘致などによる先端医療の推進や医療人材の確保・育成を政策として掲げられている理由を教えてください。医療系総合大学としての姫路獨協大学に期待することも教えてください。

人口50万人の姫路市の10万人当たりの医師数は約230人ほど。周辺市町を含む播磨姫路医療圏域では約210人です。全国平均は約250人です。全国で人口当たりの医師数が多いのは都市要覧によると、1位が吹田市、2位が久留米市、3位が松本市で、すべて大学医学部や医科大学を抱えている自治体です。医科大学があれば先端医療のコアになり、医療関連人材も育成されます。医療で大事なのはハードではなく人材のアップデートなのです。人口50万人を抱えながら医科大学がない特異なエリアは姫路市と静岡市だけです。国の方針もあり、新設医大の誘致は、今のところうまくいっていません。そのかわり地域に必要な医療人材を育てるために獨協学園姫路医療系高等教育・研究機構(DIMER)のような所でリカレント教育や実学に基づくマスターコースなどを病院群と連携して実施できないかと考えています。ハードルは高く、だからこそ医療系大学としてノウハウのある姫路獨協大学に期待したいのです。必要なら私自身も教鞭を執ることもやぶさかではありません。私はさまざまな大学で教えてきましたが、教員がパッションを持って学生を学問の世界に導くことが教育の本質だと思っています。姫路獨協大学の未来は教員のパッションにかかっていると思います。

清元秀泰さんインタビュー画像5

18歳の自分にメッセージを送るとしたらどんな言葉をかけますか?また、これから大学や社会に出て行く「オトナ1年生」へもメッセージをお願いします。

「若い頃は何でもした方がいい」です。苦労をしろとは言いませんが、若い時は可能性がいくらでもあるのです。自分が何に向いているのかも分かりません。どうせやるなら嫌々ではなく、すべてにチャレンジして楽しくやった方がいいと言葉をかけたいです。
また、「オトナ1年生」の皆さんに言いたいのは、「人生は学び、経験する旅だ」ということです。自分の教養は自分で高めるしかありません。誰かに教えてもらおうというよりは自分でつかみ取ることです。世の中に必要とされるための学問を学ぶのに、大学がどこなのかは関係ありません。私の母校、旧香川医科大学は新設でまだあまり知られていない大学でしたが、卒業後の自分の生き方に何一つ恥ずべきことはありません。大学の卒業式で当時の学長が「伝統のない無名の大学だが三流意識を持つな。これから一流になるという心構えで勉学を続けなさい。一流を目指さなければ二流にもなれない」と訓示されました。自分の生き方にずっと影響を与えたメッセージです。

清元秀泰さんインタビュー画像6

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