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柴山 栄一
柴山 栄一
柴山 栄一

04

Interview

株式会社姫路生花卸売市場
株式会社ジャパン・フラワー・トレーディング
代表取締役社長

柴山 栄一さん

すべては「これをやりたい」

から始まる

04

Interview

株式会社姫路生花卸売市場
株式会社ジャパン・フラワー・トレーディング
代表取締役社長

柴山 栄一さん

すべては「これをやりたい」

から始まる

プロフィール

1969年1月、姫路市生まれ。姫路獨協大学の1期生。91年に法学部卒業後、1年間の修業を経て92年、父親の経営する姫路生花卸売市場に入社し、2000年から現職。96年、市場以外に販売先を広げようと現在の(株)ジャパン・フラワー・トレーディング(JFT)の前身となる西日本フラワーを設立し、代表に。妻と長女(高2)、長男(小6)の4人家族に加え、犬2匹、ウサギ1匹。小学生の頃は嫌いだったゴルフが最近の趣味。

「生花」を仕事に選んだ理由は

父親が姫路生花卸売市場を営んでいました。花は身近にあり、仕事を手伝うこともありましたが、特別な思い入れがあったわけではありません。実は大学を卒業後、競争率の高い神戸市のアパレル会社の採用試験を受け、合格したのですが、入社式の日、会場受け付けに辞表を提出して帰ってきました。入社が近づくにつれ、この仕事は本当に自分のやりたいことなのかという疑問が大きくなり、前日夜に決心したことでした。
私は大学の一期生で、初の卒業生です。当時の就職課が苦心の末に紹介してくれた会社だったこともあり、ずいぶん叱られました。担当の職員さんは、率直に心情を話したら「自分のやりたいことを見つけてやってくれるのなら、それでいい」と分かってくれました。ただし「大学だけでなく、後輩たちも含めてあなたは周りに迷惑をかけた。もう二度としないで」とくぎを刺されましたが、その方が理解を示してくれたのは、私にとって大きかったですね。
その後は、当時の当社専務に連れて行かれた岡山県の生花市場で修業が始まりました。当初は5年間の約束でしたが、1年後に父親が病気をして「帰ってこい」と言われ、今の会社に入社しました。父は、会社の後継などについては一言も言いませんでした。私は片付けなどの雑用を半年ほど続けましたが、午前中に競りが終わり、昼食を食べると、もう何もすることがない。それが一番つらいので、自分で勝手に配達の仕事を入れるようにしました。本当は先輩の後ろについて仕事を覚えろと言われていたのですが、それだけではあまり発展がない。当時、会社は花市場の売り上げ上位100社の80番目ぐらいで、修業した岡山の市場ははるかに規模が大きかった。そこに勝つためには、自分にしかできない仕事をしようと考え、自分で花を売ってみようと思うようになりました。

入社日に辞表ですか

人生に大きな転機が2回あったと思っていて、その日が2回目です。
1回目は1980年12月8日、小学4年生の時。ジョン・レノンが亡くなった日です。それまでビートルズに関心があったわけではないのですが、ジョンの特集番組を見て、ミュージシャンとして世界に認めてもらっただけでなく、世界平和を強く願っていたことを知り、「すごい人だ」と感銘を受けました。それからはビートルズの出演した映画を繰り返し見て、レコードをすり切れるほど聴きました。ジョンの影響から、自分が本当にやってみたいことは何か、自分探しのようなことを考えるようになり、就職の時期にそんな気持ちが蘇った部分もあります。そんな背景もあって、辞表提出につながりました。

柴山栄一さんインタビュー画像1

仕事をするうえでどんな困難がありましたか。

会社は現在、年間売上100億円を超え、規模は全国5位になりましたが、最初は知名度がなく、それが一番つらかったですね。同業者の懇親会に行っても、2次会に誰も誘ってくれない。いくら飲んでも付き合いが深まらない。そこで酒を飲んで付き合うというのはやめて、自分の立ち位置を変えることにしました。とにかく自分から出ていって売り先を増やし、細かいケアができる営業をしようと思いました。当時、業界には他社のエリアで営業してはいけないなど、不文律のようなことがありましたが、そういうこともどんどんやりました。大消費地である都市部に進出し、同業者の隣に営業所を出したこともあります。
阪神淡路大震災(1995年)も大きな転機になりました。当日夜に神戸の市場の方から電話があり、「こちらはしばらく開けられないので、お客さんの世話をしてほしい」と頼まれたのが縁です。交通網が断絶されており、神戸まで7時間ほどかかりましたが、それから現地に行くようになりました。お客さんに水を運ぶため、給水の列に何時間も並んだこともあります。現地の花屋さんも営業できなくなっている一方、お供えや亡くなった人のために花を求めている方も多いことを知り、警察の許可証をもらって長田区に足を運ぶようになりました。毎日通ううちお客さんが集まるようになり、半値で売っていました。
バブル崩壊後で花が売れなくなった時期でしたが、求めてくれる人がいて、足を運べばそこにマーケットができる。被災直後ですが、お客さんとの交流は楽しく、営業の面白さも知りました。いろいろと勉強になりました。震災翌年、市場以外で販売ができるように「西日本フラワー(現JFT)」という会社をつくったのも、そうしたいきさつがあったからです。
タブーを気にせず、自分から出ていく営業は、初めは業界で嫌われ、ずいぶんと叩かれもしましたが、今はむしろスタンダードになっています。話を聞きたいと言って各地から訪ねて来られる方がいます。でも、自分がやりたいことを形にする努力の過程で何か方法が見つかるはずなので、まず発想がないとダメです。すべては、こんなことをやりたいと思うところから始まると思っています。

モットーはありますか。

「やった結果が今の自分」と思っています。今の自分の立場に不満があるのなら、自分への不満ということです。もちろん、生まれついた境遇や環境などはありますが、どうチャンスを生かすかなどは、自分がやっていくしかありません。自分の立ち位置はやってきたことの結果であり、やったこと以上のものではないと考えています。

柴山栄一さんインタビュー画像2

海外での事業展開について

2014年に海外での事業展開の可能性を探るため、勉強会を開いていた姫路市内の企業とともに東南アジアを訪ねました。そこで、ベトナムでは花作りが盛んで、大量に流通しているということを知りました。それにしては日本でベトナムの花を見たことがないな、と不思議に思い調べたところ、輸出できるほど品質が高くなかったんですね。その頃、中小企業の海外展開を支援するJICA(国際協力機構)の事業があると知り、私たちが生産技術を伝えられればと、ラムドン省ダラット市を対象に事業計画を立てました。申請したプロジェクトは2016年に採択され、1年で終了後、続いて17年にも採択されました。コロナ禍により、終了の時期が延びましたが、2022年にJICA事業は完了しました。今も現地人民委員会から運営の委託を受けて運営を続けています。
プロジェクト内容は、農業技術学校の設立と無ウイルス苗の培養です。現地では品質もさることながら、いくら生産しても病気によるロスが多く、農家の所得が上がらない、ということを現地政府関係者から聞いていました。そうした「困りごと」に対し、自分たちの提供できる技術がマッチングできれば、仕事は発生するので、「これだ」と思いました。現地には他の国と同じようにオランダ資本が入っていますが、我々は花生産の専門家を派遣して栽培技術を伝えるなど、日本式の技術支援を続けていきたいと思っています。
現地法人を設立し、花の栽培も進めています。栽培面積は約2400平方メートルですが、1万平方メートル近くまで増やす予定です。カーネーションやトルコキキョウ、フランスギクなど、あまり現地でつくられていない種類の花を栽培するようにしています。人気があり、ホーチミンやハノイなど都市部や地域のスーパーなどで販売しています。我々はダラット市で有名で、行けば家族のように迎えてくれます。不動産会社から植物園のデザインを頼まれたり、市から花の公園のコーディネートをしてほしいと依頼されたりしています。日本では考えられないことですが、海外では既知の相手に直接仕事の話が来ることもある。そこが海外展開の一番の魅力ですね。

小学校で花育授業を続けていますね

子どもたちに、花を身近に感じ、生命の大切さを知ってほしいと思って始めました。個人的なことを言えば、現在高校生の娘が小学生になった頃、父親の仕事のことも知ってほしいと思いました。残念ながら花市場という世界のことはあまり知られていません。従業員にしても、自分の子どもが小学生になった時、親が働いている会社が花の授業をしていると分かればうれしいのではないかな、と思いました。
校長会などの場でプレゼンテーションをしたうえで、課外授業として希望する学校に講師を派遣しています。これまでに姫路市内の小学校の半数近い43校で延べ約3万6,500人に受けてもらいました。
花をスケッチしてもらったり、においをかいでもらったりします。乱暴に扱えば花が折れてしまうので、両手でそっと持ってもらうなど、生き物としての面を知ってもらいます。そのうえで花一輪と一葉を瓶に挿す生け花「一花一葉」や、プランターへの寄せ植え、花壇づくりなどに取り組んでもらいます。花も瓶も無償で提供しています。
学校に花があるといじめがなくなるとか、不審者が敷地に入ってきにくくなって犯罪抑止になるなどの報告もあると聞きました。そういう役に立てればいいなと願っています。

柴山栄一さんインタビュー画像3

姫路にどんな街になってほしいですか

観光や経済もいいのですが、子どもに関わる教育を重視した政策をお願いしたい。特に少子化で子どもたちが減っていく状況なので、なおさらそう思います。教育は時間がかかりますが、きちんとしないといけない。AI(人工知能)にばかり頼っていては、人間にしかない発想する力が欠けてしまうかもしれません。人材育成にお金をかけ、発想できる人材、考えることのできる人材を輩出するような政策を望みたいです。

オトナ一年生へのメッセージを

私たちの頃は、何も考えなくても大人になっていける時代でした。でも今からはそうもいかないでしょう。自分でいろいろなことを考えないと、将来の仕事もなくなっていく時代だと思います。仕事とは、困りごとに対して自分たちが提供できるものを合わせていくこと。その困りごと、言い換えればニーズを知るために人に聞いていくのですが、とても難しい作業です。それならば、いろいろな手段を使って自分が思っていること、考えていることを発信してほしい。そうすると反応も出てくるでしょう。他人に迷惑をかけない限り、常識やスタンダードにとらわれる必要はない。他人との共生も意識して、自分がやりたいことを発信してほしいと思います。

柴山栄一さんインタビュー画像4

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