• Instagram
  • X
  • YouTube
  • TikTok
森 真一
森 真一
森 真一

15

Interview

ロックバンドGARLICBOYSベーシスト /
ハリマニックス株式会社 クリエイティブディレクター

森 真一さん

頑張る人がカッコいい

兼業バンドマンの境地

15

Interview

ロックバンドGARLICBOYSベーシスト /
ハリマニックス株式会社 クリエイティブディレクター

森 真一さん

頑張る人がカッコいい

兼業バンドマンの境地

プロフィール

1981年、姫路市出身。姫路獨協大学経済情報学部中退。大学1年時、友人に誘われてベーシストの道へ。2001年から本格的にバンド活動を始め、06年にロックバンド「GARLICBOYS」に加入。14年にバンドが活動休止した際、WEB制作の専門学校を経て制作会社「ハリマニックス」に入社しドローンの操縦資格も取得した。17年のバンド活動再開後は、二足のわらじで奮闘している。3児の父。趣味がないのが悩み。

生まれも育ちも姫路だそうですが、どんな幼少時代を過ごされましたか。

生家は製造や卸業をやっている漬物屋で、工場の2階に家族で住んでいました。「将来は家業を継ぐ」のだと親戚一同に思われていて、それが嫌でした。祖父母や両親の仕事に対する真摯な姿勢など学ぶべきところはたくさんあり、尊敬もしていましたが、敷かれたレールの上に乗りたくないと感じていたのだと思います。漬物屋の手伝いなどをすることはありましたが「自分のいるべきほかの世界があるはず」と感じていました。姫路の人に多いと思っているんですが「シャイな出たがり」でしたね(笑)。

学生時代に打ち込んだことはありましたか。

4歳からスイミングスクールに通って水泳をやっていました。小学校1年の時には、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの4種目をこなしてタイムも速かったので「神童」扱いでした。週に5日選手育成コースに通う日々でした。小学校の間は良かったのですが、中学に入っても身長が伸びず、体格のせいかどんどん周囲に抜かされていきました。音楽に出会ったのは、そんなころです。
6歳上のいとこがギターをやっていて「自分もやってみたい」と始めました。当時は長渕剛さんが大好きで、バンドスコアを見てずっとギターをひいていましたが、人前で披露するなんて想像もしていませんでした。
高校でも水泳を続けたのですが、次第に興味が持てなくなっていき、スイミングスクールを辞めてしまいました。そうしたら、ずっと伸びなかった身長が30センチも伸びるんですから、不思議なものです。水泳に費やしていた時間がぽっかりと空いたので、同級生とコピーバンドを組んで学園祭やライブハウスに出ました。ただ、将来何をしたいか、は具体的ではありませんでしたね。

そんな中で、大学進学を決めたのはなぜでしょうか。

両親に大学は出たほうが良いと強く言われたからでした。高校時代は素行があまり良くなくて、勉強も落ちこぼれていました。偏差値は低くない学校だったのですが、1学年(普通科)約240人の中で試験はいつも後ろから3番目。それでも3年生の夏休みから受験勉強を頑張って、姫路獨協大学の経済情報学部に進みました。

森真一インタビュー画像

本格的に音楽活動を始めたのはいつからですか。

大学1年生の初めごろ、姫路駅前の「みゆき通り」を歩いていた時に高校時代の同級生2人とバッタリ会ったことがきっかけですね。2人はギターとドラムをやっていて、「ベースやってくれへん?」とバンドに誘われたんです。ギターの友人は地元でも飛び抜けて上手かったこともあって「こいつに言われるなら、やってみようかな」がスタートです。
さまざまな先輩たちからバンドマンのいろはを学びました。音楽に関することに限らず、あいさつの仕方からお酒の飲み方まで。次第に、姫路市内のライブハウス「マッシュルーム」に入り浸るようになります。そこで、アルバイトも始めました。
2001年にはマッシュルームで出会った仲間とバンドを組んで、日本全国のライブハウスを飛び回りました。この頃は根拠のない自信があって、実際に姫路のライブハウスの動員記録を塗り替えたり、某コンビニチェーンの店内放送で全国に曲が流れたりしたんです。地方バンドとしての誇りを持って「姫路の音楽シーンをつくっていこう」と躍起になっていました。
大学でも軽音楽部で素晴らしい仲間に出会ったのですが、次第に音楽活動が忙しくなり、中退することになりました。しかし、バンド活動に注力してもなかなか「売れる」というところまではいかない日々。そんな中で、2006年に転機が訪れます。

インディーズシーンで絶大な人気を誇る大阪発のロックバンド「GARLICBOYS」に加入することになるんですね。

いまはメンバーなので絶大な人気を誇るかはよくわかりませんが(笑)、最初はただのファンでした。高校生の頃から曲を聴いていた憧れの人たちですから。出会いは、04年ごろです。ライブハウスでブッキングを担当していた方にお願いして「ガーリックボーイズを呼びたい!」とオファーして。そこから、対バン(ライブでの共演)も増えていって、仲良くしてもらうようになりました。ベーシストとしてではなく、初対面の時の打ち上げで、私が粗相をしまくっていたのがウケたらしいです(笑)。
そんな中で、メンバーから「また一緒にライブしたい」って言ってもらえて。めちゃくちゃうれしかったんですけれど「電話番号教えて」と言われて、最初は断っちゃったんですよ(笑)。あまりにも緊張し過ぎて。その後、当時のベースの方が脱退したタイミングで、「ベーシストをやってくれないか」とお誘いを受けました。

当時は別のバンドで活動されていました。悩まれたのでは。

さすがに即答はできなくて。周囲の人たちに相談してみたんですよ。そうしたら全員が「そんなチャンス二度と無いから絶対にやれ(加入しろ)」と。自分の思いも一緒だったので、加入することにしました。

憧れていただけに、プレッシャーもあったのではないですか。

そのはずなんですけれど、なぜかまた根拠のない自信があったんですよね・・・・・・。初めてのレコーディングの際には、日程が遅れ気味だったので「僕でちょっと巻き返しますよ!」とか言っちゃって。まあ、すぐに奈落の底に突き落とされることになるんですけれど。
というのも1曲目のイントロ10秒が何度やってもOKが出ない。もう、レコーディングが厳しいのなんのって。全然うまくいかず負のオーラが充満していたのか、レコーディングブースの天井の蛍光灯が急に割れて(笑)。1日掛けてイントロをなんとか録り終えました。「世界が違う」と感じるレベルの高さでしたが、年間130本以上のライブなどを乗り越えて、一員として認めてもらえるようになっていきました。

森真一インタビュー画像

ところが、2014年の末に活動休止となります。

ガーリックボーイズが大好きで、一生続けていくんだ、というやる気満々の状態でしたので、ショックは計り知れませんでした。だからこそ、活動休止後に音楽系の仕事を紹介してもらうこともあったのですが、やろうと思えなくて。当時は、音楽をやるならガーリックボーイズしかない、という感覚でした。

既に結婚をされて、お子さんもいらしたそうですね。

そうなんですよ。それで、家族を養うためにも「とにかく働かないといけない」と考えて選択したのが、WEB制作の世界でした。バンドではマネジメントも自前でしていたんですね。そんな中でも、グッズ制作やホームページの更新は私の担当でした。なので、多少の知識はあったのですが、半年間掛けて専門学校に通いスキルを身に付けました。そんな折り、ライブハウスでアルバイトをしていた時の同僚に紹介してもらい入社させてもらったのが、WEBを含めて幅広く活動している制作会社「ハリマニックス」です。入社時、どこの馬の骨とも知れないからか「会社で暴れない」という誓約書を書きました(笑)。
当時は大阪に住んでいて姫路に帰るつもりをしていたのですが、家族の事情で引っ越せず、本社のある高砂市までは電車で片道1時間半掛けて通勤していました。私にとっては、これが良かった。往復3時間の自由時間があると考えて、とにかく勉強しようと、デザインやブランディング、マーケティング、撮影などの本を読みあさりました。社会人経験が全く無かったので、言葉遣いやメールの書き方など根本的なことも含めて「遅れた分を取り戻す」くらいの感覚でがむしゃらに学び、仕事に打ち込みました。

仕事の中で、転機はあったのでしょうか。

入社してすぐに当時の会長がドローンを持ってきてくれたことです。会社の中で役割を得ようと、無我夢中で操縦や撮影に取り組みました。
今やドローンの映像は当たり前のように使われていますが、まだ法整備が追いついていないような時期で、得意な企業も多くはなかったんです。そんな中で、播磨地区のコミュニティーチャンネルでドローン空撮をコンセプトに兵庫県内の名所を紹介する番組を作らせてもらいました。その映像素材をYouTubeにもアップロードしていたら、東京のテレビ制作会社の方などから問い合わせがたくさん来て。このドローン撮影が起爆剤になって、いろいろな大学や企業などとの仕事が増えていきましたね。

森真一インタビュー画像

この姫路獨協大のプロモーションも手掛けてらっしゃいます。

中退なので母校というのも烏滸がましいですが、地元姫路の通っていた学校の広報に携われるのは、本当にうれしいですね。姫路獨協大との仕事は、2020年に「表現者であれ」プロジェクトとして、大学PRのミュージックビデオ(MV)を作ったのが最初です。親交のあった北川けんいち君(ロックバンド・ロードオブメジャーの元ボーカル)に歌ってもらい、私はベースとして楽曲にも参加しています。
それまでは、会社員としての仕事と音楽活動をくっつけてしまって良いのかという葛藤があったのですが「バンドマンのマインドでも仕事ができるんだ」と思えるようになった出来事でした。この時は、姫路のライブハウスで出会った仲間や在学中に軽音楽部で知り合った仲間にも協力してもらったんです。中退ではありますが、大学での出会いはかけがえのないものだったと思っています。

2017年4月からは、再びガーリックボーイズとしての活動を再開されています。会社員との二足のわらじとなることに悩みもあったのでは。

正直、悩みました。でも、東京のライブハウスの店長(当時)が、がん闘病中にもかかわらず「もう一度ガーリックボーイズのライブが見たい」とおっしゃってくれて。とてもお世話になった方で、活動休止が決まった際には日付の入っていないステージパスを「いつか帰ってきてくれ」と渡してくれていたんです。これはもう、両方一生懸命やるしかない、と。実際に音楽活動を再開すると、仕事で学んだことがたくさん生きてきました。グッズや映像作品の制作などバンドの中で自分のできることの幅が増えたと感じています。

再開後は2018年に「あんた飛ばしすぎ」、22年に「ダンシングタンク」といった代表曲を「ももいろクローバーZ」がカバーしたこと(楽曲提供)も話題を呼びました。同グループのレコーディングに参加するなど、バンドとしての活動の幅も広がっています。

レコーディングの際にうかがったのですが、プロデューサーの方がガーリックボーイズを好きで、ライブにも来てくれていたんです。人気アイドルの活動に携わることは、ひとつのプロジェクトを作り上げ発信するという意味でもとても勉強になりました。我々も更にパワーアップした音楽活動を披露していきます、と意気込みたいところなのですが、私自身が24年1月に耳の神経が原因で顔面神経麻痺を発症してしまいまして。
そのため、バンドとして24年5月以降のライブ活動を休止する予定です。病状の経過を見て復帰したいと思っていますので、気長にお待ちいただければ幸いです。

森真一インタビュー画像

そんな中で恐縮ですが、将来の展望を教えてください。

今後については、大学や企業、自治体のPR動画を作る際、「その場所」の音を使ってBGMを作ろうと思っています。キャンパスならば樹木から葉っぱが落ちる音とか、工場ならば機械の音。瀬戸内海の観光であれば波の音とか。そうすれば、オンリーワンの作品ができるはず。
バンドマンとクリエイティブディレクター、これまでやってきたことすべてが今、つながっているのだと感じています。

最後に「オトナ1年生」にメッセージを。

厳しいようですがやりたいことだけやれる人生なんて、ほぼあり得ません。人生が「10」だとしたら、やりたくないことが「9」、やりたいこと「1」くらいの割合です。やりたいことをやるためには、やりたくないことをたくさん乗り越えないといけない。だからこそ、頑張れる。やりたいことを1でもやれたらラッキーだと思うんです。
振り返れば、私はいつも周囲のせいにする若者でした。あいつのせい、こいつらのせい、社会や時代のせい。そんなことはないんです。間違いなく、自分の頑張りが足りなかった。ただサボっているだけでした。だからこそ、当時の私にはこう言いたいです。
「しっかりせえ!」って(笑)。
とにかく、いろいろな世界を見てください。私は「バンドマンが世界一カッコいい」と思い込んでいましたが、そんなことはないです(笑)。それぞれの持ち場で何事も頑張っている人、そのすべての人たちが「カッコいい」。手前味噌ですが、この「オトナ1年生になるあなたへ」に登場していただいているのは、そんな生き方をしている方々ばかりです。
オトナ1年生の人生を切り拓くヒントになる言葉が、どこかにあるはず。このインタビュー企画が、皆さんの世界を広げる一助になれば、こんなにうれしいことはありません。

森真一インタビュー画像

  • SPECIAL CONTENTS
  • SPECIAL CONTENTS
  • SPECIAL CONTENTS
  • SPECIAL CONTENTS