今年のはりま歴史講座は、改修工事が完了しリニューアルされた姫路城にスポットをあて、「姫路城と姫路藩の魅力を探る」というテーマのもと、5月23日に作家・平岩弓枝先生の特別記念講「千姫と姫路城」を皮切りにスタートしました。そして、姫路城に関するさまざまな分野について、著名な講師陣を揃えて講座が進行しています。
10月31日(土)は、その第8講として、静岡大学名誉教授の小和田哲男先生に、「姫路城と戦国の城」というテーマで講義していただきました。小和田先生には、平成25年度(「姫路が生んだ戦国武将 黒田官兵衛」)、平成26年度(「武士の生きざま 軍師と武士道」)のはりま歴史講座に引き続き、3期連続でのご登壇ということになります。
小和田先生は、昨年の大河ドラマ「軍師 官兵衛」の歴史考証を担当されており、講義の最初にその裏話を披露され、受講者の興味を引き付けられました。また、再来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の歴史考証を担当することになっており、そろそろその準備に取りかかるということも話されました。
さて、本題のお話は、姫路城が文献上はじめて登場するのが永禄4年(1561)の「正明寺文書」で、御着城主・小寺政職の出城として使われたことが確認され、「黒田家譜」は、その姫路城で黒田官兵衛が天文15年(1546)に誕生したことを紹介されました。このころの姫路城は、本丸(現在の天守閣あたり)と鶴見丸(二の丸あたり)からなっていたそうです。そして、豊臣秀吉が播磨に入った時、官兵衛は姫路城を秀吉に譲渡することを決め、本人は国府山城に移りますが、官兵衛の戦わずに城を明け渡すというこのような行動は、当時としては考えられないような振る舞いであると、先生は分析されています。その後、織田信長が秀吉に播磨・但馬の二国を与えたこと(天正8年<1580年>)で、秀吉は、姫路を本拠にしてこの二か国を治めようとし、これを契機に姫路城は、戦国の城から織豊期の城へと転換していくことになりました。
秀吉は、本格的な姫路城築城に着手し、小和田先生が定義される近世城郭、石垣・瓦・礎石建物(三点セット)の城が完成することになります。このとき、天守は初期望楼型(三重四層)と推定されています。また、石垣は野面積で、この時の石垣は現在でも、下山里曲輪と上山里曲輪に現存しているとのことです。秀吉が天下人になり、大坂に本拠を移した後は、弟の秀長が城主となり、その後は、北政所の兄・木下家定が城主となり、関ヶ原の戦いを迎えます。そして、関ヶ原の戦いで軍功のあった池田輝政が城主となり、現在の五層六階の天守閣を擁する大規模な近世城郭を完成させます。輝政が姫路城の大規模改修をできたのは、徳川家康の娘婿であったことが大きな要因であると、先生は話されました。
江戸時代に入り、本多忠政が城主となった時、嫡子・忠刻に家康の孫・千姫が嫁いだことで姫路城にも化粧櫓が増築されました。その後、姫路藩15万石の藩主は譜代大名の重鎮・榊原氏などを経て最終的には酒井氏が入り、幕末を迎えることになります。先生は最後に、15万石の規模の大名で、よくぞこれだけの大規模の城を幕末まで維持してきたものだと、歴代の藩主の城郭管理に感心されていました。
講演終了後は、参加者からの質問にも丁寧にお答えいただき、充実した90分でした。
(文責:副学長・道谷 卓)