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2013年11月21日

播磨学II (第6回)開催(報告)[教務課・地域連携課]

11月8日(金)、姫路市立城郭研究室の多田暢久氏をお迎えして、「赤松氏の居城・置塩城について」というテーマでお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

2001年に、「国史跡・置塩城跡が盗掘被害」という新聞記事が掲載されたことがある。「赤松小判」を狙って、初の発掘調査前に盗掘したのではないかと思われるが、大判がつくられるのは秀吉の時代、小判は家康の時代からなので、中世の置塩城跡で発見されるはずがない。

近世の城郭と中世の城郭には大きな違いがある。中世には天守や長大な石垣はほとんどなく、個人や村単位で勝手に作っている。姫路市内だけでも80か所以上も城・構・溝居・砦跡が存在する。中世城郭の多くは山城であった。山頂部を削平した曲輪を作り、防御のために堀切や土塁を築いた。城門の置かれた虎口には、両脇を少しずらして真っすぐ侵入できないような、「喰違い虎口」などの工夫がなされた。

夢前町宮置の城山(標高370m)の頂上にあった置塩城は、文明元年(1469)、赤松政則が播磨守護就任に合わせ、築城したといわれている。その後、赤松晴政の時に本格的な改修が行われ、天正8年(1580)、秀吉の城割令により破却、廃城となった。現在、廓、石垣、土塁、本丸や二の丸の遺構が確認されている。

中世は近世と違って自己責任、自力救済の時代であり、いつ敵から襲われるか分からなかった。赤松則房の時、置塩城は恒屋肥前守によって夜討ちを受けた。しかし、逆に討ち取ったので、必ず褒美をやるという「赤松則房感状」が、上月文書・芥田文書・白国文書に残されている。

(文責:大塚健洋)