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2013年12月02日

播磨学Ⅱ(第8回)を開催(報告) [教務課・地域連携課]

11月22日(金)、姫路文学館学芸員の甲斐史子氏を講師にお迎えし、「姫路城下を彩る純愛『お夏清十郎ものがたり』」というテーマでお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

お夏清十郎とは、江戸時代の初めに姫路で起こった事件がもとになって生まれ、現代にまで語り継がれてきた伝説である。それは商家の娘お夏と手代の清十郎が、身分違いの恋の末引き裂かれ、清十郎が刑死し、お夏は狂乱の末に尼になったというものであった。

天明年間に書かれた姫路に残る文献『村翁夜話集』には、お夏清十郎の記述がみられ、実際にそのような事件があったことが分かる。事件の現場は、姫路市本町の「札の辻」西南角二軒目の但馬屋であった。そこは姫路城大手の中之門筋と西国道が交差する最も人通りの多いところである。但馬屋は一等地に店を構えた豊かな商家であったと思われる。

このスキャンダルは、たちまち庶民の好奇心をあおり、時と所を超えて伝わっていった。それを小説化し伝説の骨格をなしたのが、大阪の流行作家・井原西鶴であった。彼は事件から20数年後、浮世草子『好色五人女』の巻一「姿姫路清十郎物語」を著した。西鶴は、室津を舞台に放蕩三昧だった清十郎の前歴をつづることで、そのような男に惚れ込むお夏の魔性をも見事に描き出した。花見の日の大胆な愛の交歓から一転、駆け落ちをしくじり盗みの濡れ衣で打ち首となる清十郎と、狂乱に陥るお夏の末路は、読者の哀れみを一層かきたてたに違いない。

事件を小説にまで飛躍させたのは、「清十郎殺さばお夏も殺せ 生きて思いをさしょよりも」、「向う通るは清十郎じゃないか 笠がよく似た菅笠が」といったはやり歌の存在があったと考えられる。その後、近松門左衛門が、人形浄瑠璃「五十年忌歌念仏」でドラマチックに舞台化し、歌舞伎や浄瑠璃の世界で「お夏清十郎もの」というジャンルが形成された。

お夏には、いくつか伝説が残されている。小豆島に嫁いだとか、老いて備前市西片上で茶店を営んでいたとかいわれている。また室津では海に身を投げて死んだといわれ、浄雲寺にはお夏を供養する木像が残っている。姫路の慶雲寺では、お夏清十郎の比翼塚が祀られ、8月9・10日に追善の催しが行われている。

(文責:大塚健洋)