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2014年06月13日

播磨学 I (第9回)「酒井抱一と江戸琳派」を開催[教務課・地域連携課]

6月6日(金)、姫路市立美術館学芸課の平瀬礼太学芸員を講師にお迎えし、「酒井抱一と江戸琳派」というテーマについてお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

酒井抱一(1761~1828)は、姫路15万石を擁する有力大名家に生まれた。本名は忠因(ただなお)。兄の忠以(ただざね)は第16代当主で、宗雅と号した。酒井家は代々文武両道を旨とし、特に絵画には造詣が深かった。江戸の酒井藩別邸で生まれ育った彼は、青年期、吉原を拠点とする公子として名を馳せた。江戸の市井文化になじみ、洒落本や狂歌本に「尻焼猿人」の狂号で狂歌を掲載し、歌川豊春に倣う肉筆浮世絵を描いた。大名家の子息としては、あるまじき破天荒な行動であったが、兄の宗雅は温かく弟を見守った。
37歳で出家するころから、かつて酒井家が召し抱えていた尾形光琳に深く傾倒し、55歳の時に光琳百回忌法要や展覧を行い、光琳の後継者として自他ともに認められるようになる。私生活では自由気ままに生き、40代の半ば、最大手の遊郭大文字楼の花魁を請け出し、内妻とした。小鸞女史と名乗った彼女は、高位の遊女らしく文芸に長け、抱一作品に書や漢詩を寄せた合作が残っている。
60歳前後から、抱一はより洗練された花鳥画風を描くようになる。四季の移ろいを的確に描き、自然の風趣をとらえた新たな作風は、のちに「江戸琳派」とよばれた。光琳の風神雷神図屏風の裏に描かれた夏秋草図屏風は、抱一の代表作である。
彼は工芸意匠も手掛け、軸盆、櫛、印籠、盃など、蒔絵師の原羊遊斎との共作で、江戸琳派デザインのブランド化を進めた。彼はまた下谷大塚の寓居雨華庵で仏画制作も行った。華麗な抱一の仏画には、花鳥画家の範疇には収まらない別の魅力も見いだせる。
1828年、抱一は雨華庵で68歳の生涯を終えた。彼の系譜を受け継ぐ江戸琳派の画家としては、鈴木其一、池田孤邨らがいる。

(文責:播磨学担当者 大塚健洋)