11月7日(金)、兵庫県立考古博物館学芸課課長補佐の山上雅弘氏を講師にお迎えし、「官兵衛をめぐる五国の城」というテーマでお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。
戦国時代末期の播磨には、赤松本惣家と龍野赤松氏、赤松氏家臣小寺氏、別所氏、浦上氏といった有力武将がおり、置塩城、姫路城、竜野城、三木城、御着城など、たくさんの城郭があった。しかし、播磨は日本の覇権を争う武家権力が東西から争う激戦地となり、そのなかで黒田官兵衛は頭角を現して、秀吉とともに天下の計略に才能を発揮する。
播磨は天正5年に始まる上月合戦から、有岡城籠城戦、三田城籠城戦、三木合戦と、毛利・織田方両方に分かれて戦う悲惨な状態になった。広大な付城と土塁線によって包囲された三木城は、干し殺しとなり、城兵の命と引き換えに城主の別所長治が自刃し落城した。
三木城の発掘調査の結果、食糧貯蔵用の甕群が発見され、その中に6条麦が残されていた。また中尾城では、破片となって散乱した甕や壺とともに、米や麦などの雑穀がまき散らされていた。これらのことから、籠城戦では一般の民衆も城に逃げ込み、無残な最期を迎えた様子がうかがえる。勇ましい大河ドラマの裏には、むごい戦争の現実が隠されていることを忘れてはならない。
(文責:講義担当責任者 大塚健洋)