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2014年12月10日

播磨学II (第8回)「描かれた姫路城」開講(報告)[教務課・地域連携課]

11月21日(金)、姫路市立美術館学芸課課長補佐の高瀬晴之氏を講師にお招きし、平成23年度の美術館の特別企画展をもとに、「描かれた姫路城」というテーマについてお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

姫路城が描かれるようになったのは、さほど古いことではない。江戸時代には、城は軍事的拠点であったので、正確に描くことはタブーであった。観光案内の鳥瞰図などに姫路城は登場するが、場所が播磨であることを示すためで、どの城ともいえないような描かれ方をしていた。

明治に入ってからは、付近一帯が軍の管轄下に置かれ、建物自体も傷んでいたため、姫路城を描いた作品はあまり残されていない。しかし、明治末期に修理され一般の登閣が許可されると、徐々に増えていった。大正期には鉄道網の整備によって旅行ブームが起こり、姫路城がよく描かれるようになった。

洋画では、まず城のある風景として描かれ始め、やがて甍や壁が形作る構築美に惹かれ、姫路城を描く画家も現れた。飯田俊良の「姫路城」は、今回の調査では、洋画で姫路城を描いた最も古い作品である。

昭和の大修理が決定すると、10年近く大天守を見られなくなるので、多くの画家が解体前に姫路を訪れた。小山敬三は乾の小天守にアトリエを設け、「白露城」などの作品を描いた。

現実を離れて、幻想的な趣を持った姫路城も描かれた。池田青邨は、青年期の一時期姫路に住み、その後も実家が姫路にあったことから、代表作「白鷺城を想う」のほか、多くのスケッチを残している。

本部棟と医療保健学部棟の入り口には、地元出身の小野勉画伯の姫路城の絵が掛けられていますが、これらは本学創立20周年を記念してご寄贈いただいたものです。画像は本部棟の「姫路城遠景」です。

(文責:講義担当責任者 大塚健洋)