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2014年12月16日

播磨学II(第11回)「『官兵衛がゆく』連載を終えて」開講[教務課・地域連携課]

12月12日(金)、作家の柳谷郁子氏を講師にお迎えしました。柳谷氏は、JR西日本ジパング倶楽部の『旅のアトリエ』に、2013年9月号から2014年10月号に14回にわたって、紀行文「官兵衛がゆく」を執筆されましたので、今回、「『官兵衛がゆく』連載を終えて」と題してお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

連載のために各地を取材して感動したのは、どの土地にも郷土のスターがおり、地元の人が崇め語り伝えていることであった。彼らは信長や秀吉に負けるのを承知で挑み、滅んで行った。しかし、彼らのぶれない、潔い生き方には「敗者の美学」がある。
たとえば、干殺しといわれた三木合戦では、三木城主・別所長治が1年10か月間も籠城して戦い、ついに一族の自害と家臣城兵の助命を交換条件に降伏した。彼らの最後は、その辞世の句とともに今日にまで語り伝えられ、称えられている。

長治: 今はただ 恨みもあらじ 諸人の命にかはる我が身とおもへば
長春女房: もろともに消えはつるこそ嬉しけれ おくれ先立つならいなる世を

水攻めにあった備中高松城でも、城主の清水宗治が自らの切腹を条件に和睦に応じた。主君宗治を介錯したのは、国府市之允。彼は主君の首を検視人に渡し胴を葬った後、自分もその穴へ自らの首をはねて殉死したという。宗治がいかに慕われていたかを示すエピソードである。今もその胴塚はひっそりと祀られている。
柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市の方とともに北庄城で自刃した。その時、市の娘茶々、初、江が助け出されたが、そのうち江は徳川2代将軍秀忠の正室で、三代将軍家光の実母であった。結局、天下を取り脈々と血脈を繋ぐのは、信長の血であったといえないこともない。歴史の醍醐味である。

(文責:講義担当責任者 大塚健洋)