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2013年11月28日

播磨学Ⅱ(第7回)を開催(報告) [教務課・地域連携課]

11月15日(金)、太子町立歴史資料館学芸員の田村三千夫氏を講師にお迎えし、「峯相記について ―峯相記に記された中世の播磨 ―」というテーマでお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

『峯相記』は、貞和4年(1348)10月、現姫路市西部にあった峯相山鶏足寺に参詣した旅の僧が、偶然出会った旧知の老僧に、寺社の縁起や、播磨に念仏が広まった様子、当時恐れられていた悪党の様子について、聞いているかのように書き記した中世播磨の地誌である。残念ながら原本は残っていないが、太子町の斑鳩寺に最古の写本(1511年)が残されており、昨年、国の重要文化財に指定された。

峯相記の内容は、導入部分、仏教諸派の説明、両僧の宗教的立場、鶏足寺の歴史、播磨各地の霊場、播磨各地の神社、郡郷田地のこと、播磨の故事、悪党のこと、元弘の乱のことなどからなっている。

主な寺院や神社としては、天台宗の六ケ寺、つまり円教寺、随願寺、一乗寺、八葉寺、神積寺、普光寺、また伊和神社、荒田神社、住吉神社、佐保神社、白国神社、生石神社、海神社、日岡神社などの縁起や近況が紹介されている。総じて仏教は格式ばった公式のもので、神は俗なものと見なされていた。

悪党については、西安・乾元(1299~1303)の頃は、山賊のようなものであったが、やがて嘉暦(1326~29)の頃になると、50騎100騎が武装して、年貢の横取りや強盗をするようになり、天下の耳目を驚かしたという。悪党は柿帷を着て六方笠や烏帽子をかぶり、袴をはいて高矢籠を背負い、太刀を腰に差し、鎧や胴はつけていなかった。峯相記には、このように悪党の具体的な姿格好が記されており、大変貴重である。

その他、興味深い記述としては、浄土教の浸透と繁栄、広峯山のこと、黒岡明神のことなどが書かれている。

初めて姫路市外の博物館から学芸員をお招きし、播磨学の講義を担当していただきました。太子町立歴史資料館のご協力に心より感謝申し上げます。

(文責:大塚健洋)