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2014年01月10日

播磨学II (第10回)開催(報告) [教務課・地域連携課]

12月6日(金)、姫路市立城郭研究室係長の工藤茂博学芸員をお迎えして、「姫路藩について」というテーマでお話しいただきました。講演要旨は以下の通りです。

姫路は西国大名に対する幕府の拠点であった。戊辰戦争では、老中を務める藩主の酒井忠惇が、将軍徳川慶喜に従って大阪城に入り、退去の時も同行した。幕府軍の主力を成したのが、姫路藩の藩兵であった。姫路はそもそも土地の生産力が高く、財政改革に成功して経済力をつけ、井伊直弼の暗殺で凋落した彦根藩に代わって、幕政を支えた。

藩とは大名の領知、すなわち人と土地、そしてそれを統治する機構のことをいう。明治元年から府県(旧幕領)と区別するために、旧大名領を藩とよんだことに由来する。明治4年の廃藩置県で消滅した。江戸時代には、~家中、~領などといわれていた。

大名領はいわば独立国で、国替えがあった。石高によって国の内情がわかるが、実際とは違う場合がある。領地は村単位であった。現在の姫路市域には、姫路藩、林田藩、安志藩の3つの藩があった。

黒田官兵衛が、豊臣秀吉に姫路城を譲ったのち、木下家定が城主となった。家定が徳川家康によって備中足守に移されると、池田輝政が52万石を与えられて入封した。輝政は家康の娘・督姫を後妻に迎えていたので、督姫の生んだ次男忠継には備前岡山28万石、三男忠雄に淡路一国6万石が与えられた。輝政の弟・長吉は鳥取6万石を有していたので、池田家は姫路を中心に、合計100万石近い領土を所有することとなった。その居城にふさわしい城として築かれたのが、現在の姫路城であった。池田家の後、本多・松平・榊原・酒井家が藩主となった。

姫路藩の財政再建を行った人物に、河合寸翁がいる。彼は木綿の栽培や朝鮮人参、塩、竜山石の販売でそれを実現したといわれているが、木綿切手や積み金で財政をやりくりしたことも忘れてはならない。

なお、播磨学IIの第9回と第11回は、学内担当者が映像を利用して「赤穂浪士」について講義をしました。

(文責:大塚健洋)